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2019年8月15日

10992:抗命 インパール2:読書印象録です

本日は終戦記念日:この一週間の旅行の間、飛行機の中、列車の中と私は日本と韓国の不仲を憂いつつ、新宿駅で買ったこの本を読むのに多くの時間を費やしました。それがこの「抗命 インパール2 (文春文庫)」です。高木 俊朗氏著の文庫です。そのあたりを探しましたが1に相当する本は見つからなかったのです。後で探すと、同著者の「インパール (文春文庫)」 文庫 – 2018/7/10という物がありました。
「抗命インパール2」の内容紹介は次の通り:
◎太平洋戦争で最も無謀だったといわれるインパール作戦。昭和19年3月、ビルマから英軍の拠点があったインド北東部・インパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。
「インパールの悲劇」は〝日本の東条〟とビルマの〝小東条〟牟田口廉也の握手から始まった――史実に基づいた考証と冷静な筆致と気迫で、涙と憤りなしでは読めない、第一級の戦記文学を復刊!
「何しろわしは、支那事変の導火線になったあの盧溝橋の一発当時、連隊長をしていたんでね。支那事変最初の指揮官だったわしには、大東亜戦争の最後の指揮官でなければばらん責任がある。やるよ、今度のインパールは五十日で陥してみせる」功名心に気負いたつ軍司令官・牟田口中将の下、いたずらに死んでいった人間の無念。敗戦後は部下に責任転嫁し、事実の歪曲を押し通した軍人を許すまじ!
本書はその実相を書き、牟田口廉也批判の口火を切った『イムパール』に、著者自ら大幅な改訂を加えた文庫決定版。
その従軍の様子は、私(清澤)も、眼科の大先輩で有った桑島治三郎先生から仙台広南病院のお昼休みの話の中でしばしばうかがうことが出来たものです。殊に3人の連隊長の全てを作戦遂行中に積極的でないとして更迭するいうのは普通ではない。本書を読むと、この作戦は桑島先生がお話しくださったように、制空権も無く、また補給の途次も無い限りなく無謀な作戦で有ったことが分かります。また、勝利完遂の前に雨期に入ってしまったことも、事態を悪くした様です。桑島先生の退却途次、前の隊の落伍兵の死体が有れば、しばらく手前から腐敗臭で解ったということでした。死体には蛆がわき直視できないものであったということでした。敵の航空機が何かを落として行き、日本兵が喜んだら、其れは敵が陣地を作るキットで有り、退路も断たれたという話でした。非常な負け戦であり、佐藤連隊長の抗命に相当する決断で、多くの人命を失ったがそれでも生還できた兵も居た。参加人数約10万人のうち、戦死者3万人、戦傷・戦病で後送された者2万人。残存兵力5万のうち半数以上も罹患(りかん)していたという。
「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条:2018/8/16(https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3416702015082018000000)という記事もお勧めしたいです。それによると、「牟田口の名前が歴史に登場するのは、37年の日中全面戦争につながった盧溝橋事件です。事態収拾を優先する中央の方針に対し、独断で出撃命令を出しました。自ら正しいと思うことの実行に直進するタイプでした。太平洋戦争初期のマレー作戦で第18師団長としては軍功を挙げました」
 「牟田口は、作戦に参加した3個師団の師団長を作戦途中で全員解任しました。インパール北方のコヒマに向かった第31師団の師団長、佐藤幸徳中将は、ほとんど補給を受けないままでの戦闘継続は不可能であるとして、軍命令に反して独断で撤退し更迭されました」これが本書の題とされた抗命です。
 「戦後暫(しばら)くは沈黙を守っていた牟田口は、インパール戦史を執筆する英国人の取材を受けた後に弁明を始めます。英国人が牟田口の作戦を好意的に扱っていたからです。」NHKには今も牟田口の弁明の録音が残されているそうです。 「牟田口を取材した英国人の前提は、日本軍も英軍と同じように十分な弾薬の補給を受けられるというものでした。しかし、そんな前提はそもそも成立してはいなかったのです。」

清澤の追記:インド独立を目指すチャンドラ・ボースを支持したという言い方に全面的に賛成する訳では有りませんが、日本の戦争は東南アジアの国々の独立の役にも立ち、また2年後のインド独立のきっかけにはなったのでしょう。パル判事が東京裁判でA級戦犯の有罪判決を支持せず東京を離れたという事もそういう事だったのでしょう。

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