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2017年5月14日

8841:アシュケージ系ユダヤ人とは?

8841:アシュケージ系ユダヤ人とは?

(作曲家ガーシュインも東欧系ユダヤ人の子供として米国に生まれている。)

清澤のコメント:ユダヤ人に対する迫害の本を読むとアシュケナージ系ユダヤ人という言葉が出てきます。ここでは、その辺を調べてみました。今日はそこには深入りしませんがイスラエルでもこのアシュケナージ系ユダヤ人(アシュケナジム)と地中海岸に住んでいたユダヤ人(セファルディム)の対立が問題になっているそうです。、

アシュケナジム(ウィキペディアから抄出)

アシュケナジム(アシュケナージム、Ashkenazim)とは、ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫を指す。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズである。

アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。アシュケナージは、ヘブライ語でドイツを意味する。イスラエルでは一般に、前者が白系ユダヤ人、後者が有色人種、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合がある。歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえない。

歴史
ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界(のちのイスラム世界)に住んでいた。

それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。7世紀に中央アジア西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の住民とされ、ヨーロッパに西進し移住したわずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の子孫だとする説、またはローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたとする説、イタリアからアルプスを越えてやって来たとする説などあるが、単一の起源ではないかもしれない。

 8世紀から9世紀には北フランスにアシュケナジムらしきユダヤ人の記録が見える。まもなく彼らは、ドイツ中部のライン川(ライン地方)、ブリテンなどにも広がった。

彼らは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。「ユダヤ人高利貸」というステレオタイプはこのようなキリスト教社会でのユダヤ人の職業に由来し、これに対しイスラム社会のユダヤ人にはこのような傾向はなかった。

彼らは西欧にも定住したが、1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも迫害されたりした。追放された彼らの多くは東方へと移民した。まずはオーストリア、ボヘミア、モラヴィア、ポーランドなどの地域へ移住し、ポーランド王国は1264年に「カリシュの法令」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。当時ドイツ人の東方植民時代で、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ユダヤ人などもポーランドで(ドイツの)マクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した。

ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランドで最初の硬貨発行(ヘブライ語が印刻)などに携わった。ポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らはのちにポーランド・リトアニア共和国の全地域へと拡散した。

ポーランド王国は当初彼らを、チュートン騎士団等ドイツ人勢力との結びつきが強いドイツ人移民に代わる専門職移民として歓迎した。彼らの中には、ポーランド・リトアニア共和国で成功し、金融業や商人、地主や貴族階級(シュラフタ)になった者、そしてヨーロッパに来て初めて農業を営んだ者もいたが、その点が西欧に住み続けたユダヤ人たちと異なる。

中世末期の欧州では、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人にしばしば保護を与えていた。これは予告なく撤回もされるものだった。アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特徴をよく示している。ヴィースラ川の王国(ポーランド王国)にやってきたユダヤ人は、祖国で享受していたものと同等とされる特典をいくつか与えられた。移民誘致策に下心がないということはなく、「庇護民」を搾取するのは当たり前となっていた。

フランス革命による平等思想の啓蒙や、ポーランド分割による国境の消滅により、アシュケナジムの中にはふたたび西欧に戻ったり、新大陸へと移住したりするものも現れた。しかしその大多数は現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ西部(ガリツィア)の三地域に居住した。

19世紀末から20世紀前後にロシア帝国のポグロムや反ユダヤ政策、ヨーロッパ諸国での反ユダヤ主義勃興により、ユダヤ人自身の国民国家を約束の地に建国することを求めるシオニズムの思想が生まれ、ポーランドやロシアなど東欧からオスマン帝国領のパレスチナに入植する人々が現れた。

ドイツではナチスが台頭し、多くのユダヤ系ドイツ人がアメリカ合衆国やイギリス委任統治領パレスチナに逃げるように移住していった。ドイツとソ連によるポーランド侵攻が起きてポーランドが占領され、ポーランドを含むヨーロッパのユダヤ系の人々はナチス・ドイツが引き起こしたホロコーストにより多くが死亡した。(ホロコーストにより、ポーランドでは600万人いたユダヤ人のうち300万人がドイツによって殺害された。これにより、現代のアシュケナジムは主にアメリカ合衆国かイスラエルに住んでいる。)
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眼科医清澤のコメント:米国に留学中のある日、病院に医師がほとんどいない日がありました。聞くとその日はユダヤ人の祭日だったそうです。それほどに、米国人の眼科医師にはユダヤ人が多かったことに驚いたことでした。

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