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2017年1月22日

8511: 映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を見ました。

映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 劇場公開日 2016年7月22日

清澤のコメント:
DSC_9562 主人公はトランボ(Tranbo)であってトランプではありません。池袋の名画座の2本立て見てきましたが、結構混んでいました。「ローマの休日」や「スパルタカス」(https://www.kiyosawa.or.jp/archives/54477399.html)は私も実際に映画を見て知っていた作品であっただけに、トランボという脚本家の存在を知らなかったことに驚きました。
 映画のストーリーの中では、西部劇役者のジョン・ウェインが権力を笠に着る悪者に、カーク・ダグラスが彼を再び見出して助ける良い人役で出てきます。マッカーシー旋風というのは戦前の日本の赤狩りのようにアメリカでもそんな時代があったという事なのですね。
 アメリカ・ファーストを唱えるトランプ氏が大統領になって、米国内の世相がどう動くかも今後注目されます。

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「ローマの休日」など数々の名作を生んだ希代の脚本家ダルトン・トランボの波乱万丈な人生を描いた伝記ドラマ。脚本家トランボはハリウッド黄金期に第一線で活躍していたが、冷戦の影響による赤狩りの標的となり、下院非米活動委員会への協力を拒んだために投獄されてしまう。釈放された後もハリウッドでの居場所を失ったトランボは、偽名を使用して「ローマの休日」などの名作を世に送りだし、アカデミー賞を2度も受賞する。逆境に立たされながらも信念を持って生きたトランボの映画への熱い思いと、そんな彼を支え続けた家族や映画関係者らの真実を描き出す。ジェイ・ローチ監督がメガホンをとった。

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ウィキペディアを見ると:

アメリカ合衆国コロラド州に生まれた。大学を卒業後、雑誌の記者・編集者を経て脚本家への道に進んだ。1940年の『恋愛手帖』でアカデミー脚色賞にノミネートされ、一躍ハリウッドのトップ脚本家として脚光を浴びた。

第二次世界大戦終結後の東西対立の激化の中、「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれた運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人(ハリウッド・テン)の中に数えられ、1947年10月20日、反共キャンペーン下院非米活動委員会による第1回聴聞会に呼び出された。

当時のハリウッドにはジョン・ウェインらを筆頭に「アメリカの理想を守る映画連盟」という組織が設立され、非米活動委員会への協力が推進された。第1回聴聞会に出席したトランボは合衆国憲法の言論と集会の自由を理由に証言を拒み、禁固刑の実刑判決を受た。

刑期終了後も、アメリカ映画界から事実上追放され、妻らと共にメキシコに移住した。トランボは偽名を使って脚本家としての仕事を続け、B級映画作品の脚本で食いつないだ。

1956年に、ロバート・リッチの偽名で参加した『黒い牡牛(英語版)』でアカデミー原案賞を受賞するが、彼の名前は公にされず、アカデミー賞授賞式にも登場しなかった。トランボの名前を刻んだオスカーが彼に贈られたのは、1975年。クレジットに彼の名前が再び現れるのは、1960年の『スパルタカス』であり、ハリウッド追放から13年が経過していた。

また、トランボの死後、イアン・マクレラン・ハンターの原案・脚本とされていた『ローマの休日』が、実は追放中のトランボが1953年に偽名で執筆したものであったことが判明し、アカデミー原案賞が、1993年に改めてトランボに贈られた。

トランボは実名でハリウッドに復帰した後も、『脱獄』『パピヨン』などの大作・ヒット作に名を連ねた。そして1973年の『ダラスの熱い日』の脚本を最後に1976年死去した。

トランボはベトナム戦争最中の1971年、65歳にして自身の唯一の監督作品として原作・脚本を兼ねて制作した。日本では『ジョニーは戦場へ行った』と訳題されるこの映画は、その年のカンヌ国際映画祭で、審査員特別グランプリ他を受賞。

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