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2017年1月8日

8469:勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:記事要点紹介

勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:記事要点紹介

編集委員・宮代栄一 2017年1月8日11時35分
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清澤のコメント:
 今日の朝日新聞日曜版にこの記事が出ていました。
 以前、NHKの大河ドラマ北条時宗でも文永の疫では蒙古軍撤退に当たっては神風の場面がなく、どうした事か?と思った記憶がありました。どうも蒙古軍は日本の武士が戦って撃退していたという事のようです。そもそも、別の話では蒙古が日本に侵攻したのは中国の統一に使った軍を捨てる(棄民)ためであったという説もあるようです。
 
 戦争に勝った後の軍隊というものは為政者にとってある意味邪魔な存在。褒美が少なく不満を持つと国内の治安は悪化します。次の対外的な戦に勝って領土が広がればそれはそれでよい。たとえそれに負けても軍が縮小してくれれば、それはそれでも良いというわけです。

 さらに、侵攻を受けた国は戦に勝っても(国を守った)政権は例外なく間もなく倒れます。この元寇の後の鎌倉幕府しかり、秀吉の朝鮮征伐に勝った中国の明朝。蒋介石の中華民国も日本との戦いには勝ちますが、中国共産党に国を追われます。
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 モンゴルのインパクト(注1)というのはこの時代の世界を表す重要な言葉でるようです。それにしても、西はヨーロッパにまで広がる元帝国に征服されずに日本が独立を保つことが出来たという事は、驚くべきことのように思われます。これを纏めた本がきっと出ることでしょう。

ーー記事抜粋ーー
 モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。ーー

 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。

 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。

 くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。

 弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。

 一方、フビライが3度目の日本遠征をやめた理由はベトナム侵攻で敗北したからとの説が有力だ。ーーー

 服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈禱(きとう)をした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」

 ーーー(編集委員・宮代栄一)

     ◇

■世界史的視野が必要

 「元寇」という言葉が生まれたのは江戸時代。寇は「侵略」を意味する言葉。

 モンゴル帝国の伸長に関しては一国にとどまらない世界史的視野での議論が欠かせないため、近年は元寇も、ヨーロッパや東南アジアなどを含めた「モンゴル襲来」「モンゴル・インパクト」の一環として論じられることが多い。先月も東京・昭和女子大学で国際シンポ「ユーラシアにおけるモンゴルのインパクト」が開催された。

《読む》

 「神風」説を否定し、学界の内外に一大センセーションをまきおこしたのが、服部英雄氏の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)。新井孝重氏『戦争の日本史7 蒙古襲来』(07年、吉川弘文館)は従来説等をバランスよく俯瞰(ふかん)する。
ーーーー
注1:ユーラシアにおけるモンゴルのインパクト
昭和女子大学国際文化研究所主催の国際シンポジウム(終了)。  (⇒pdfにリンク)
―考古学・歴史学から見た「海域アジアのモンゴル襲来」―

第1部 日本のモンゴル襲来研究最前線

第2部 海域アジアのモンゴル・インパクト

第3部 モンゴル・インパクトの背景

第4部 モンゴル・インパクトによる歴史認識の変容

Categorised in: 未分類