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2016年10月31日

動き出す!絵画 ペール北山の夢:絵画展印象記

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眼科医清澤のコメント:
1)ポストインプレッシオニムズに対する後期印象派という翻訳は誤りだそうだ、つまり印象派よりも後という意味になるっ薬でなくてはならない。
2)麗子像で知られる岸田劉生の立ち位置が少し理解できた。
3)ペール北山というのは北山清太郎に対する親しみを込めたニックネームだそうだ。
4)この後、映画俳優の高倉健の展覧会があるらしい。申し込みはネットのみとのこと。

  --要点採録---
動き出す!絵画 ペール北山の夢
-モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち-:という絵画展を東京駅ギャラリーで見てきました。駅のコンコースで無料で開催される展示会みたいなものを想像していった者にとっては、入場料が1000円なので高い。しかし、東京駅北駅舎の2階と3階を会場とした展示は予想以上に充実した物でした。

会期:2016年9月17日(土)-11月6日(日)
【主催】東京ステーションギャラリー(公益財団法人東日本鉄道文化財団)、読売新聞社、美術館連絡協議会

以下は抄出した採録からの内容です。

◎明治末から大正初期、日本ではヨーロッパ美術への関心が高まった。その興味は、過去50年ほどに起こったセザンヌ、モネ、ルノワールなどの印象派、ゴッホやゴーギャンといったポスト印象派、未来派や、ピカソといったキュビスムなどの20世紀アヴァンギャルドまでの動向にまでおよんだ。

◎若き洋画家のなかには留学する者もいたが、多くは雑誌の購読や、複製写真や版画による展覧会の鑑賞、洋書の貸し借りなどを通じて情報を得た。彼らは同時代の西洋美術の情報をもとに、自らの絵画表現を新たな視野で自由に試み、世に問うた。

◎青年画家たちは、発表の場、情報の入手、生活費などの問題を抱えていたが、それを裏方として支え、近代美術の発展に寄与したのが北山清太郎である。北山は日本におけるアニメーション草創期の重要な3人のうちの1人に挙げられるが、当初は洋画界にその身をおき、岸田劉生や木村荘八ら、洋画家たちの活動を支援した。

◎そして、『現代の洋画』という美術雑誌を編集、刊行し、同時代の作家の活動や西洋美術の紹介にも積極的に努めた。また、絵具の販売や写生会の実施、作品の募集による懸賞事業等も行い、洋画の裾野を広げた。

◎彼の活動に感謝した画家たちは、パリでゴッホら多くの若い画家たちを支えた画材商のペール・タンギー(ペール=おやじ)になぞらえて、ペール北山と呼ぶようになった。

本展では、大正期の日本における西洋美術への熱狂と、それに影響を受けながら展開した前衛的な近代日本美術の動向を、“北山清太郎”という人物を手がかりにひもとく。

紹介:「動き出す!絵画」展 展覧会の流れ

◎第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱

明治末頃から、文芸誌『白樺』や書籍を中心に盛んに紹介され始めた西洋の美術。新たな洋画を志した若者たちが見たいと切望した絵画がここに集結。
:ロダン、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ

◎第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽

西洋美術の情報を得ようとする流れのなか、フランスを中心としたヨーロッパに留学した画家たちが、相次いで帰国。日本的なアカデミズムとは相容れず、新しい美術を生みだそうとする流れを作った。
:藤島武二、南薫造、湯浅一郎、津田青楓、山脇信徳、中村彝、坂本繁二郎、浜田葆光ほか

◎第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社

1912(明治45)年10月、反アカデミズム的な洋画家たちによりヒユウザン会(のちのフュウザン会)が結成され、第1回展が開催された。展覧会は2回で終了したが、いわゆる「後期印象派」風の明るい色彩で荒々しい筆触の前衛的な画風が並び、注目を集めた。北山はこの画期的な会の事務局をつとめ、目録や雑誌を発行した。解散後、高村、岸田らによって生活社が結成された。
:岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、高村光太郎、萬鉄五郎、川上凉花、北山清太郎ほか

◎第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ

北山は、1914(大正3)年7月に『現代の洋画』を終刊、翌月から『現代の美術』を刊行した。9月に日本画家中心の巽画会に設けられた洋画部の幹事として洋画部の主宰となり、機関誌の編集も手掛け、岸田や木村は審査員を務めた。翌年10月に現代の美術社主催による展覧会が開催され、これが草土社へと発展的に継承されたが、北山が会に関わったのは翌年4月の2回展まで。
:岸田劉生、木村荘八、高須光治、横堀角次郎、椿貞雄、中川一政、河野通勢ほか

◎エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

北山は美術界を離れ、映画の世界へと踏み出した。1916年8月には、日活に嘱託として入社。その目的は絵を動かすこと、つまりはアニメーションを制作することでした。『美術雑誌』9月号の発刊後、北山は美術界から完全に退き、それまで日本人が制作したことがなかったアニメーションの制作に没頭。翌年、ようやく最初の作品が完成し、日本人第一号とはならなかったものの、同じ年に最初に国産アニメーションを発表した日本人のひとりとなった。

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