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2016年8月15日

8045 上海に行ってきました。その3 上海共同租界とは?

8045 上海に行ってきました。その3 上海共同租界とは?

「上海バンスキング」という映画を上海在住の中国人の友人は知らないそうです。あの映画で華やかにかつ怪しく描かれた上海の租界とはどんなものだったのかをウィキペディアで調べてみました。

上海共同租界というのは今では外灘(band)のこと。嘗て日本はこの共同租界に発言力を持っていた時期が有り、後には1951年12月8日には上海全体を占領し、そしてのちには、その傀儡である汪兆銘政府に支配を渡していました。という訳で、上海には一度も日本租界というものは有りませんでした。

私の従来の上海に対する思いはこの映画に始まっていました。必ずしもこの映画と今回の訪問の印象が重なるものではありませんでしたが、外灘の町やフランス租界を歩いて見ると、こんな時代がこの町にもあったのかと感じて帰ってきました、

残念ながら動画の埋め込みは削除されていますが、こちらから映画の予告にリンクできました。 _AC_UL320_SR226,320_ ウェルカム上海 2014/12/05 に公開 https://www.youtube.com/watch?v=4zcJxMVJMfI
 昭和11年上海。売春と麻薬の陰謀が渦巻く街であり、東洋のジャズのメッカでもあった。シローは、ジャズを諦めることを条件にまどかと結婚、パリに向かう途中、上海に寄る。実は、シローの目的は上海でのジャズ生活だった。騙されたまどかは驚くが、おまけに上海から抜けられない事件に巻き込まれる。シローの友人、バクマツがダンスホールの中国人ダンサー、リリーと恋仲になり、アメリカ人の経営者、ラリーに脅されていた。危機一髪、まどかはラリーを説得し、働いて償うことにする。その日からジャズとむせ返るほど自由な日々が始まる。そんな彼らに日中戦争の影がしのび寄っていた・・・。破滅的な昭和史を背景に、自由に、純粋に生きようとした人々を、深作監督が描いた人間讃歌のメッセージ。(C)1984 松竹株式会社

 --wikipedia記事の概略から--
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上海共同租界旗。中央の円の中には(日本を含まない)各国の国旗が描かれていた。

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上海共同租界の位置。赤色の部分が共同租界。肌色の部分はフランス租界。

上海共同租界(英: Shanghai International Settlement)は、上海市に置かれていた上海租界のうち、フランス租界を除いた数カ国が管理していた部分。1842年の南京条約にもとづき同11月から12月にかけて設定され1943年まで約100年続いた。

概要

当初は上海市議会(工部局)が上海で米英の租界を管理した。工部局は1854年に既存の英国租界と米国租界をまとめて管理するために再組織され、その後日本がこれに加わり、イギリス5人、日本とアメリカにより2人ずつの計9人の参事会員が選出され上海共同租界を運営した。

租界は完全に外国列強が制御しており、工部局には日本、イギリス、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリア、デンマークが各々の国の国籍を持つ職員を置いた。中国人が工部局のメンバーに参加したのは、中国国民党の蒋介石が中華民国として中国を統治するようになった後の1928年のこと。

工部局は国家を代表して共同租界の駐在官と共に、建築や公共施設を建設した。警察力を維持し、独自の軍事力も持った。今も外灘には新古典主義建築の建築物が多く残る。

租界の拡大

太平天国の乱(清を脅かし後に鎮圧された大規模な反乱)以降、中国人の流入が増えると人口にあわせるため、共同租界は何度かに分けて拡大され、22.59平方kmを持つに至り、人口も爆発的に増えた。上海共同租界の隣にあり、フランス植民地の一部であったフランス租界とは違い単独国の所有ではなかった。

1930年代には、日本などに対するテロ事件が頻発した。1935年当時の上海には28,000人の日本人居留民が暮らしていた。

国共内戦が激化すると、多数の中国人が内戦から逃れ、或いはより良い経済状況を目指して共同租界に定住し始めた。1932年、租界には百万を超える中国人が住み着き、1937年に第二次上海事変が勃発すると、さらに40万人の中国人たちが安全を求めてこの地域に逃げてきた。この町は、ドイツの迫害を逃れてやってきた多くのユダヤ人たちにも避難所となった。

上海共同租界の撤廃

イギリス人とアメリカ人の影響は、実質的には1941年12月8日の日本軍による上海占領と大東亜戦争(太平洋戦争)開戦によって終わった。①この租界は1943年2月に形式上、イギリスから中国国民党の蒋介石に租界を「返還」されている。しかし蒋介石はこの時期上海を統治していなかった。

②一方で1943年7月、上海市議会日本人の画策で租界は日本と関係の深い汪兆銘政権下の上海市政府に返還され、大東亜戦争後、中国国民党率いる中華民国政府の統治下になった。中国国民党が敗北し、中国共産党率いる中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府は中国共産党の選んだ上海市長の下におさまった。
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清澤のコメント:元のウィキペディアが長い説明でしたので、清澤が勝手に短縮しました。誤解が有りましたら、ご指摘ください。

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