お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2016年8月7日

8028:子供も連れて記念艦三笠を見てきました。

mikasa_00-thumb-760xauto-101
今日は子供も連れて記念艦三笠を見てきました。26歳ころに来て以来2度目の訪問です。

 記念艦三笠のすぐ近くにはアメリカ海軍の横須賀基地(Commander Fleet Activities Yokosuka – Commander, Navy )も有りました。横須賀からは多くの米軍退役軍人が米国退役軍人省(VA)の指示によって検診の為に当医院を訪れています。

日本海海戦での勝利に導かれた日露戦争の勝利に当時の日本人は歓喜雀躍しました。しかし、その日本はその後、自分の大きさが見えなくなってゆき、野郎自大の趣も加えて太平洋戦争での大敗へと突き進んでゆきます。失う物ばかりが大きかった太平洋戦争の敗戦でしたが、国内には多くの優れた技術者を涵養しており、貧しさの意味も理解した日本国民は戦後の10年または20年で失った以上の物を建設することが出来、1964年の東京オリンピックへと進んでゆきました。
 8月15日の終戦記念日を目の前にした8月、そして平成の御代が終わろうとしている平成28年8月に記念艦三笠を高校生の子供に見せられたことには、それなりの意味が有ったと思います。

 『日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。
 欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進しました。
 「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35年(1902)3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました。』;記念艦三笠ホームページから。

bridge
『ロシア皇帝は、不利な戦況を挽回するため、明治37年10月、ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第2太平洋艦隊を、次いで翌年2月15日、第3太平洋艦隊をバルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣しました。(第2、第3太平洋艦隊の総称がバルチック艦隊です)
 東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。明治38年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏させました。
 この絵画は、東城鉦太郎画伯が日本海海戦直前の旗艦「三笠」艦橋の様子を描いたものであり、東郷平八郎司令長官、加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎艦長、秋山真之作戦参謀、Z旗などが克明に描かれています。』同上のページから。

『日露戦争の勝利により、我が国は独立を全うし国際的地位を高め、また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え、独立の気運を促進しました。
 当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは、日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、インド独立のため命を捧げる決意をしたと自伝で述べ、また、次のように子供に話したと伝えられています。
 「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利は、アジア全ての国々に大きな影響を与えた。私は少年時代、どんなに感激したかをおまえによく話したものだ。
 たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすれば、アジアは昔、度々そういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。」』

Categorised in: 未分類