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2016年5月6日

7722:「信濃の戦国武将たち 笹本正治 著」:感想

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「信濃の戦国武将たち 笹本正治 著」を真田丸特別展の帰りに図譜の代わりに買ってきました。

 この中の木曽義昌の章を見ましたら、武田からの離反を決めた木曽家に武田勝頼の使者が来たが、その口上が無礼であるとして義正は「西尾丹波」にその使者を殺させたという記述が有りました。「西尾丹波」は我々子孫には鳥居峠の合戦や、妻籠宿の合戦で義昌に従って手柄をたてたと伝えられていましたが、この両者の合戦の概要も詳しく書かれていました。
 私の故郷の松本(当時の呼称は深志城)は戦国時代において、小笠原、馬場、木曽、そして再び再興小笠原、石川と目まぐるしく主が変わりますが、そのあたりの事情も詳しく紹介されていました。

 --上記の書籍からの関連部分の抜き書きです---(2016年5月7日加筆)

第6章 武田氏を滅亡に追い込む --木曽義昌ーー

○(215ページ)天正十年正月六日(1582)甲州の安倍宗貞のもとへ(木曽)義昌が(織田)信長と結んだと連絡が入った。報告を受けた(武田)勝頼は嘘か本当かわからなかったので、義昌へ使者を派遣して、「信玄の厚恩を忘れて信長に降参するようなことはないであろうが、もしそのようなことがあるならば我らが出馬してその方を滅ぼそう」と伝えた。その使者が傍若無人で有ったため、義昌は大いに怒り、西尾丹波に命じて討たせた。
 義昌が謀反を起こしたと聞いて、勝頼親子と武田信豊は移ったばかりの新府城(山梨県韮崎市)から馬を出し、一万五千ばかりの兵で諏方の上原(茅野市)に陣を敷いて、領国へ入る諸口の警護を命じた。

○鳥居峠の合戦(216ページ):(武田)勝頼は(木曽)義昌が謀反したと知ると甲州から軍勢を派遣し、信豊に率いられた二百余騎が(天正10年1582年)2月6日に諏方から木曽に向かった。木曽勢は鳥居峠を前にして藪原に控え、三十騎ばかりが斥候として峠の峰に控えた。
 武田方は平沢(塩尻市)まで来て、諏方明神の森に入って評定を行い、木曽勢が鳥居峠を塞いで待っているだろうと軍勢を二手に分けた。一手は山を越えて藪原に押し寄せ、一手は峠を登ることにし、攻撃して挟み撃ちにしようとした。また稲核(松本市)口には古畑伊賀・西牧又兵衛を置いたが二月十六日に両人とも木曽に内通した。
 二月十六日、武田軍の一手は奈良井から山を登り、一手は峠から敵に向かって押し寄せた。背後から攻撃する一帯はカンバ平に至って、藪原を見下ろした。木曽勢は敵を藪原に引き入れようとわざと静まり返って備えた。武田勢は青木ヶ原に出たが、残雪が深く進むことが出来なかった。鳥居峠に控えていた木曽勢は鬨の声を上げ、藪原にいた者たちが青木ヶ原に馳せ向かって、入り乱れて武田軍と戦った。武田軍はことごとく敗北し、信豊が兵を率いて諏方に帰った。
 織田方からは、織田源五・織田孫十郎・稲葉彦六などが加勢し、木曽の軍勢と鳥居峠を確保した。こうして織田氏の勢力は鳥居峠以南を完全に抑えた。

○妻籠城の攻防(234ページ):『木曽義昌と小笠原貞慶の戦いは秀吉と家康の対立につながっていた。(注:天正12年1584年、小田原征伐の6年前)9月に入ると菅沼・保科・諏方の軍勢が連合して、清内路(阿智村)から妻籠城(南木曽町)に押し寄せたので、義昌は山村良勝を主将にして城を守らせた。徳川方が城に攻め掛かったが、木曽軍は城中から大石や巨木を投げ出し、鉄砲を浴びせかけた。寄せ手は直接攻撃を諦めて兵糧攻めにすることにし、これに渡島(南木曽町)の者や山口の牧野弥右衛門が協力したため、城中の食料が乏しくなった。また、城では弾薬が尽きて進退が極まったが、竹中小左衛門がひそかに城から抜け出して三留野(南木曽町)に至り補給して城に帰った。
 こうした状況を見て、与川(南木曽町)の古典庵の住職が診方の苦境を救おうと、紙のは多数本を立てて狼煙を挙げ、夜になると山中に篝火を焚き松明を振り回させた。連合軍はこれを見て、福島から木曽氏の援軍が来たと思い、また美濃金山(岐阜県可児市)の城主森氏の軍が出てくるという風聞も有ったので囲みを解いて退こうとした。良勝はこの状況を見て敵軍を、あらかじめ蘭(南木曽町)の山中に伏せて置いた兵と追撃した木曽軍とに攻撃させた。こうして、妻籠城は何とか陥落せずにすんだ。』
(注:北条征伐と家康の関東への所替え、それは木曽氏の千葉県旭市網戸への移封を伴うのですが、それは天正18年の事です。)

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