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2016年4月27日

7697:真田幸村の妻  阿井 景子 (著):読了

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真田幸村の妻 (講談社文庫) 文庫 – 2016/4/15  阿井 景子 (著):読み終わりました。

 関ケ原の戦いには参戦しなかったが、真田昌幸・幸村父子は、第2次上田城の戦いにおいて、徳川秀忠の率いる中山道部隊の関が原への移動の足止めに成功する。しかし、関が原で行われた天下分け目の決戦において、西軍は徳川家康が率いる東軍に敗退する。小早川の裏切り、朽木などの諸隊、そして毛利家の一部も徳川方に調略されていた。

 真田昌幸・幸村父子は信州上田を追われ高野山に蟄居となる。だが高野山は女人禁制の地であるから、夫と別れて妻子は高野山口の九度山に居を構えた。

 幸村(信繁)には何人かの妻たちがいたが正妻は「竹」、大谷吉継の娘だという。

wikipediaを見ると、娘(妹、姪を養女としたという説もある)は真田信繁の室であるというが、学説として信頼できる史料は無い。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。

 信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている。なお、吉継の娘の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・「竹林院」という号しか解っていない。;とされている。

この、物語は、妻「竹」の眼から見た閑居の日々、やがて迎える凄惨な大坂の陣などを描いている。真田丸では「梅」がすでに第一次上田合戦で死に、今は、「きり」が生き残って真田信繁の妻になろうかという流れで話が進んでいる。「きり」は信繁との間に2人の娘を生んで、九度山にて早世しているらしい。

sanada折から真田幸村の特別展も4月29日から江戸東京博物館で開催中とのこと。連休中に見に行くのも一興かと思う。

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