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2015年11月3日

7150 本能寺の変431年目の真実(明智憲三郎著):を読みました

7150 本能寺の変431年目の真実(明智憲三郎著):を読みました

天下の大罪人とされる明智光秀であるが、それは本能寺の変を機会に政権奪取に成功した豊臣秀吉の作った筋書きである。ということを、現代に生きる明智氏の子孫明智憲三郎さんが詳しく調べて本にしたという作品です。歴史家という人々が歴史を研究して来たのに、如何に真実を見抜けなかったか?という事を実証している作品です。

記載された内容を思い出せるままに拾うと次のようなことが書いてありました。

明智光秀は美濃の名門である土岐一族ではあったが、光秀の信長に出会った最初の頃の地位は細川家の足軽にすぎなかった。後には、将軍足利義昭直属の御家人に出世している。さらに、織田信長に仕えてからは室町幕府方の役人と並び織田家方の名代として布告に署名するまでに出世していた。それは、佐久間信盛一族の追放など織田家内でも新旧の交代が為された時期にあたり、明智光秀の地位は佐久間信盛の位置を埋めるものでもあった。

明智光秀家臣は、親類筋としても土佐の大名長曾我部元親とは繋がりがあって、それを自らの織田家内での地位の裏付けともしていた。しかし、信長は四国で急激に成長したこの長曾我部家を滅ぼすことを決め、実際に四国への出兵が準備されていた。光秀の決起は、長曽我部家に促された可能性が高い。本能寺での信長殺害は直後に迫っていた織田家軍勢の四国への出陣前でなくてはならなかった。

のちに秀吉の指示で行われた朝鮮や中国への出兵(唐入り)は秀吉が発案したものではなく、もともとは信長の考えたものであった。この海外出兵は、海外に領地を得たとしてもようやく得た国内の領地を主家に奪われる。滝川家の関東への移封を見ても、明智には嬉しいものではなかった。

信長が本能寺で画策し光秀に行わそうとしたことは、実は「徳川家康の暗殺」であった。(清澤注:これは映画将軍 SHOGUNのストーリーにつながるものがある。)明智は家康との連携を想定して本能寺で信長を殺害した。信長が敵に囲まれたときに「是非もなし」と言ったのは暗殺が家康ではなく自分にむけられたことを悟ったからであるという。信長の最期を世に伝えたのは、黒人でイエズス会に連れられて日本に来た国人奴隷でのちに信長に小姓としてかわいがられた巨体の黒人で彌介という人物だったらしい。本能寺の変では生き残ったが、彼のその後は歴史から消されている。

秀吉は家康もこの謀反の一味ではなかったかと疑ったが、とらえられた明智の侍大将であった斎藤利三は家康の名を上げなかった。家康は、光秀一族で残されたものを実は匿っていて、明智の侍大将であった斎藤利三の娘の福に至っては秀忠の長男家光の乳母に迎えている。江戸幕府内の文書では実は福は乳母ではなく、家光の実母で有ったという記載もある。彼女の前夫との子は幕府の老中にもなっている。

家康の伊賀越えでの帰国は実は容易だった様である。多くの伊賀者を抱えていたし、このような帰国は十分に準備されたものであった。

帰国直後に家康は、それまでかくまってきた武田の遺臣を動かして甲斐と信濃の織田領を簒奪している。その直後西に向かって明智支援に向かおうとしたが、明智光秀はその日までの命脈を保つことが出来なかった。

秀吉は細川藤孝から、明智光秀による織田信長殺害の計画を聞いていた。細川はその計画の主要メンバーであって、決行日こそ知らなかったが、本能寺の変の前に明智を見限ってそれを秀吉に伝えていた。秀吉はその状況の中で故意に毛利との戦に膠着状態を作り、信長殺害が行われるのを待っていた。安国寺恵瓊は毛利方の政僧であるが、秀吉とは昵懇であった。そういう準備があったから、大返しは実行できたのだ。

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