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2015年9月13日

6957 山口市、瑠璃光寺の五重塔を2度も拝観しました。

rurikouji瑠璃光寺の五重塔

応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、弟の盛見が建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したといわれている。

屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。

香山公園内には、【瑠璃光寺】や【五重塔】の他、幕末の藩主・毛利敬親が、討幕の策を練った茶室【露山堂】や薩長連合の密議を行った【枕流亭】などがある。

写真3 昼に小雨の中を一度、晩になって講演会終了後ライトアップされたこの寺の境内でこの5重の塔をもう一度拝見しました。なんといっても五重の塔ですから背が高く細身でスマートです。

応永の乱とは:

1)義満と義弘の対立

応永元年(1394年)義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。この頃までは義満と義弘の関係は良好だった。義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めたが、諸大名の中で義弘のみは従わず、義満の不興を買った。大陸との貿易の推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ大内義弘の存在は目障りだった。

2)戦いの経過:挙兵、大内氏分国と反義満派の挙兵拡大
応永6年(1399年)10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着く。義満は翌10月28日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。義弘は篭城策を採った。義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築いた。周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。

3)城攻め:幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。義弘の軍勢は5000余騎。

11月29日、幕府軍が一斉に総攻撃を開始した。細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。

4)反義満派の蜂起も各地で起きた。
4)落城:12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて討ち取られた。その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。

5)戦後:周防・長門の本拠を守っていた盛見はこれに従わずに抵抗。弘茂は幕府の援軍とともに盛見を攻めてこれを追うが、応永8年(1401年)に九州で盛見は再挙し、数度の合戦の後、弘茂は佐加利山城で滅ぼされた。

盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。幕府もこれを認めざるを得なくなり応永12年(1405年)頃に盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返すことになった。
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写真1清澤のコメント:こうしてみますと盛見が寺を建て始めたのは1405年以降、大内氏が再び周防や長門に勢力を盛り返したのちであったと考えられます。

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