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2015年8月30日

6930 カンボジアの独立と内戦;

一ノ瀬泰造の死を理解するための「カンボジアの独立と内戦」の歴史です

独立後、南北に分断された隣国ベトナムでベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカ合衆国と南北ベトナムの介入によってカンボジア内戦が勃発した。1968年にはアメリカ軍の空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、クメール共和国を樹立した。

1970年のクメール共和国成立後、内戦は一層激化した。アメリカ軍による空爆がカンボジア全域に拡大され、数十万人が犠牲となると、反米を掲げるクメール・ルージュ勢力の伸張を招いた。更に、ロン・ノル将軍によるクーデター後、北京に亡命していたシハヌーク元国王も亡命先でカンプチア王国民族連合政府を樹立し、かつて敵対していたクメール・ルージュと共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出していた。

(一ノ瀬泰造がカンボジアに入り、そして命を落とした1972-73はこの期間という事になります。)

1975年4月17日、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュのポル・ポト書記長がクメール共和国を打倒し、民主カンプチアを樹立した。クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8カ月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策の下、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。

 この死者数は、1970年代前半の総人口の13~29%に当たる。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。それ故、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。

1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中でソ連派のベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国派の民主カンプチアに侵攻し、翌1979年1月にポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。なお、このソ連派のベトナムによる中国派のカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。その後ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。

1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンボジア連合政府を樹立した。人民革命党と反ベトナム三派の対立が継続する。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。

制憲議会発足

1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施された。この時の国連の代表が日本の明石康である。6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言した。選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[4]。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則の一つとした。制憲議会は国民議会に移行した。

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