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2015年6月9日

5659 ジャック・ラカンの精神分析思想とその人生

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小林秀樹 「歴史を語る事が困難な現代において、患者の「歴史と」向き合うということ。ジャック・ラカンの精神分析思想とその人生」

○以下は清澤の聴講記ですが、聞き取った個々の記載の正確さには自信がありません。ラカンが症例をどう分析したか?という事を、この症例の記述から紹介したという事であろうかと拝聴いたしました。

◎ 刑法上で重要な犯罪を侵した精神病患者を触法精神病患者と呼ぶ。そのような人をどう考えるかという話でもある。
 
 ラカンの師であるフロイトは、サルペトリエル病院で神経内科医シャルコーの弟子であった。人間の持つ歴史概念は人によって違う。しかし、精神病理においては、1980年以来流行の「操作的診断基準」からは経緯が排除されてきた。「経緯」を重視したジャック・ラカンの死去は1981年であり、それはサルトルやフーコーが死去した時代でもあった。ラカンはカトリック信者の裕福な家の生まれであって、スタニスラフ高等中学卒業。高等師範学校(エコールノルマル)からパリ大学医学部へ転じている。

症例エメ(マルグリット・パンテーン)は女性で38才、1931年生まれ。サンタンヌ病院で行われた診療の記録であって、ラカンの医学博士論文でもある。
女優で無声映画の女優でもあった人が刺される事件が有った、その犯人がエメである。1885年に同性同名の人が産まれている。その人はエメの姉だったが1890年にその姉ガ焼死。母の流産の後、1892年にこのマルグリット・パンテーヌは産まれた。母親による溺愛を経験し、エメはパラノイア的要素をももっていた。姉のエリーズが母親代わりで育ったが、マルグリットは優秀で、就職もした。しかし1985年殺人未遂を起こす。
エメはユゲットジロフの噂を聞く。1923年にレオン・ドーデの息子が自殺したが、ドーデはこれをみとめられなかった。そして、アナキスト等を目の敵にする様になった。
エメという名前は、ピエール・ブノアの小説にある名前である。
ヤスパースの理論、ダリのパラノイア論(妄想型統合失調症)等の影響もうけた。
ラカンは、同性愛における被害妄想を述べ、同性愛と被害妄想は関連しているとしている。同一化という機制によって、エメは母、ピール・ブノア、ドーデ、デュロフと同一化してゆく。

1938年まで、ラカンは精神分析の教えを受けている。当時は自我を強化することで精神病を治すという考え方ががはやっていた。しかしラカンは、逆に「勝手な自我の阻害」が精神病の原因と考えた。(演者には『ラカン 患者との対話 症例ジェラール、エディプスを超えて』 小林芳樹編訳 (人文書院, 2014年という著書があるので参照)
そして、ラカンは1963年にフロイト派と袂を分かった。

Jacques_Lacan清澤の追記(ウィキペディアを参考に)
ラカンは、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家。 フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。

ラカンはパリ精神分析協会に所属し、同協会の会長に選ばれるが、会長就任後、同協会に内紛が生じ分裂した。1964年に自ら「パリ・フロイト派」を立ち上げた。だが、同派も結局1980年に解散することになった。

ラカンは、基本的には「語る」人であり、あまり「書く」人ではなかった、つまり、セミネールで語ることを中心とし、初期の博士論文を除いてまとまった著作を書くことをしなかった。

「ラカン派」は、ラカンの死後、さまざまの団体・派閥に分裂して活動することとなった。フロイトの大義派は「フロイトの大義派」およびパリ第8大学精神分析学科を拠点に、ジャック=アラン・ミレールを中心とした分析家たちが研究と教育を通じて活動している。という訳で、弧の演者はパリ第8大学精神分析学科に留学しているので、その流れをくむ人である。

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