お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2015年5月20日

6574:洲崎球場のポール際:後編です

5160z60+hbL__SY344_BO1,204,203,200_
洲崎球場のポール際:の読書記録後編です

第5イニング:巨人軍は昭和11年9月群馬館林分福茂林寺球場で行われた「茂林寺の猛練習」で見違えるほどの成長を遂げた。沢村栄治は左足を跳ね上げるフォームを一層磨いた。

第6イニング:小西得郎が大東京軍の監督に就任した。:テンポの速さは草創期のプロ野球の特徴だった。洲崎周辺も連日押し寄せる大観衆に空前絶後のお祭り騒ぎだった。低湿地だったからキャッチャーゴロが異常に多発した。

第7イニング「伝統の一戦ここに始まる。」:洲崎球場での巨人軍とタイガースの対戦で巨人が勝利。
images
第8イニング:昭和12年の球春と残された時間:「国策の基準」で中国大陸に加え東南アジアへの進出が構想され、大幅な軍備増強がうたわれた。国民講堂を埋めるプロ選手は、70人余り。このうち何人がユニフォームを着て来年の開幕を迎えられるだろうか?巨人の連期優勝と盧溝橋事件。ハリスは「カナシクテ、カナシクテ、サヨナラガ、イエマセン」と言い残して日本を去った。

第9イニング:生と死のポール際:昭和12年秋シリーズは8月29日から。後楽園スタジアムが完成し、9月10日以降、洲崎球場の名は無かった。大東京軍はライオンと改称、本拠地も大阪に移った。徴兵検査後の沢村の変調で巨人は連敗。大量の戦死者が報じられる中で、何かが麻痺していった。
無題
3月15日:洲崎球場水没コールドゲームは記録上この試合だけ。昭和13年7月15日に、昭和15年の東京オリンピック開催権を日本政府が正式に返上。先の見えない泥沼の時代に突入しつつあることを誰もが感じ始めていた。昭和18年2月から昭和19年10月の間に解体されたらしい。国民新聞も都新聞と合併し「東京新聞」に。

エピローグ
3月10日未明の東京大空襲、永代通りは火の海となった。電車通りには、焼死体が枕木のように並べられた。東陽公園は仮設の埋設所となり、無数の卒塔婆が立ち並んだ。
 すべてが灰となった日本に、夢にまで見たプロ野球の時代がやってきた。
―――木造の洲崎球場の完成から10年の歳月がたっていた。しかし日の当たらない時期を支えた多くの名選手たちは、――快感を覚える機会に永久に恵まれなかったのである。

あとがき:この時代を伝える。そのためだけに私はこの本を書いた。(著者)

清澤のコメント:涙なしには読めませんでした。この後半部分のサマリーを纏めるのに半月もかかってしまいました。待っていただきありがとうございました

Categorised in: 未分類