お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2014年8月8日

5696 原爆投下から終戦に至る一連の流れが重要

原爆投下から終戦に至る一連の流れが重要

「諸君はすでにお盆休みのことに心は行ってしまっているだろうが、69年後の我々は広島、ソ連参戦、長崎、終戦という我々の父母、祖父母が経験した「終戦への日々の流れ」の上をいま進んでいて、それを自分のこととして感ずることは平和な中で育った我々にもとても大切なことだと思う。」と偉そうに今朝の朝礼での話をしながら、不覚にもふと眼頭が厚くなるのを感じました。

ーーーーーー
広島への原爆投下 → ソ連の対日参戦 → 長崎への原爆投下 → ポツダム宣言受諾、という終戦に至る一連の流れが重要といった人がいます。(http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20110809から)ーー抄出

「あの戦争 太平洋戦争全記録 下」という本(編集:産経新聞社/発行:ホーム社/発売:集英社)から以下に転載

○『昭和二十年(一九四五年)八月六日午前八時十五分、広島上空約九千六百メートルから投下された原子爆弾は、五十秒後に高度五百八十メートルで爆発した。」
井伏鱒二の名作「黒い雨」を生むことになる。

○爆弾投下成功から十六時間後に、トルーマン大統領は声明を発表、「これが原子爆弾である」と明言した上で、「その破壊力はTNTの2万トンに相当する」「われわれは、現在日本が有するいかなる都市、いかなる生産施設も一層迅速かつ完全に抹殺する用意がある」と、ポツダム宣言を受諾しない日本を威嚇。

○動揺する政府・軍部にソ連参戦が追い打ちをかけた。(中略)当初スターリン首相は対日宣戦布告を八月十一日に予定していた。それが六日広島への原爆投下で日本の降伏が早まり、ソ連の対日参戦の出番がなくなるのを心配したのだろう。予定を二日早めた。「九日開戦」

○九日早朝、私邸に迫水久常書記官長の訪問を受け、ソ連参戦を知らされた鈴木貫太郎首相は、結末を付けるために動き出した。

○臨時閣議は休憩を挟んで深夜まで続いた。この間四時ごろ長崎への二発目の原爆投下が閣議の席に報告された。二発目の投下は午前十一時二分。長崎が小倉の身代わりになった。この投弾は閣議の場へ駄目押しする心理的効果はあったかもしれない。

○閣議は、「国体の護持」だけを留保条件とする外相・海相、それに加えて占領形態・武装解除・戦争犯罪人問題にも条件をつけるとする陸相・陸海総長の意見が対立、午後十時過ぎても決着はつかなかった。鈴木首相は御前会議を決断した。

○午後十一時五十分から宮中防空壕の一室で始まった御前会議は間もなく十日に入った。午前二時過ぎ、聖断を仰いだ首相に、天皇は「私は外務大臣の意見に賛成である」と、お答えになった。降伏-ポツダム宣言受諾の申し入れが決まった。

清澤のコメント:

私は遅れてきた世代。父や母の世代が青春の季節を第二次世界大戦の中で過ごし、そのあとのベビーブーマーの世代よりもさらに数年遅れて昭和28年の日本に生まれてきました。

その意味では、戦後復興(昭和20年9月から昭和29年11月、)を享受し、もはや戦後ではないとの声も聴き育ちましたので、終戦自体は出生前の出来事です。

そのあとも、
高度経済成長第一期(設備投資主導型)昭和29年から昭和36年、
高度経済成長転型期(転換期)昭和37年から昭和40年まで、
高度経済成長第二期(輸出・財政主導型)昭和40年から昭和48年
と、誠に良い時代に育ったものと思います。

それに対して父や祖父の世代は身内や友人を戦争で亡くし、大きな価値観の変化を身を以て体験してきたわけです。

卑近な話、私が南砂町で開業してから今日までの9年の方が、終戦から私の生まれた日までの8年よりも短かかったというのは大きな驚きです。

世界はウクライナやそのほかの地域の混乱で不安定さを増しています。遠方の戦火を想いながら、真摯に8月の過ぎた日々を思い返したいと思うわけです。

Categorised in: 未分類