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2014年2月6日

5149 総員起シ;を読みました。

無題
不幸な事故によって沈没し、九年の歳月をへて引揚げられた悲劇の〔イ33〕潜水艦の一室に、生前そのままの姿で発見された十一人の兵士の遺体。瀬戸内海の底に停止していた時間の驚異を描く

清澤のコメント;以前どこかの週刊誌に何枚かのこの時の写真が出ていたのを思い出します。改定の低温で酸素が無い状態のために9年間も腐敗しないまま死体が残っていたという奇譚です。この大事故の原因は修理工事の残材が閉じるべき空気弁に引っかかっていたという事だったそうです。

ーーー抜き書き(http://www.kkjin.co.jp/boso010_130524.htm)ーーー

 ただ今後他の潜水艦に同様の事故が発生することを防ぐためにも、沈没事故の確認をおこなう必要があった。 その原因を追求する上で、小西少尉、岡田一曹の証言が重視された。
 かれらは二人とも、艦が急速潜航をおこなった直後、
 「機械室浸水!」
 という伝令の声が伝令管から流れ出たことを証言した。
 容易に想像されるのは、機械室の上方にある給気筒の弁がひらいていたため海水が流入したのではないかと疑われた。 が、各弁の完全閉鎖は、赤い標示灯の点灯で自動的に確認される。 哨戒長は、その点灯を目認した直後「潜航急げ」の号令をかけたはずで、他のなんらかの理由で機械室に浸水したのではないかという意見も出された。
 結局、翌日は、潜水夫を使って給気筒の弁を調査することになった。
(《総員起シ 総員起シ》P.213)

 潜水夫が数名、艦橋の後部にある給気筒を調査するために潜水していった。 その結果、思いもかけない事実が判明した。 浮上してきた潜水夫は、黒ずんだ短い丸太を手にしていた。 それは、直径五センチ、長さ十五センチほどの円材だった。 潜水夫の話によると、給気筒の頭部弁から気泡が涌いているので調べてみると、弁の間に円材がはさまっていたという。 つまりその円材のために弁が完全に閉鎖されず、急速潜航と同時にその間隙(かんげき)から海水が流入したことがあきらかになった。
(《総員起シ 総員起シ》P.214~215)

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伊号第三三潜水艦

艦歴
起工 1940年2月21日
進水 1941年5月1日
その後 1944年6月13日沈没
除籍 1944年8月10日

排水量 基準:2,198トン 常備:2,584トン
全長 108.7m
全幅 9.30m

乗員 94名
備考 安全潜航深度:100m

建造三菱重工業神戸造船所、1942年(昭和17年)6月10日に竣工。同年9月25日にトラック港に入港、26日に珊瑚礁に衝突し、艦首第6発射管維持針装置が損傷したため、修理の目的で特設工作船浦上丸に横付けした。修理作業中に艦のバランスを崩し、艦尾ハッチから海水が侵入、33mの海底に着底した。この事故で航海長以下33名が死亡。

浦上丸、立山丸の活躍により同年12月29日に引き上げ作業を完了、1943年(昭和18年)3月2日に日豊丸により曳航されトラック出航、呉に入港後呉工廠にて大改修を受ける。

1944年(昭和19年)6月13日に伊予灘で急速潜航訓練中に機関室に浸水、由利島付近60mの海底に着底。木片が頭部弁に詰まったためと思われる。復旧作業もうまくいかず、最後の脱出手段としてハッチを開放、乗員2名(ハッチから脱出できたのは3名)が生還したが和田艦長以下102(92)名は死亡した。

引揚

1953年(昭和28年)7月23日北星船舶工業により浮揚、前部魚雷発射室に空気が残っており引き上げ作業は難航した。前部魚雷発射室では腐敗せずに残っていた乗員13名の遺体が発見され、電動機室からは遺書などが収容された。その後日立造船因島工場で解体されたが、その際に元海軍技術士官だった3名が前部魚雷発射室においてガス中毒で亡くなるという事故も発生した。

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