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2013年7月29日

4600 胆沢平野は広大だった。(奥州市水沢区にて)

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まなづるセミナー(合宿で行われる神経眼科の勉強会)で奥州市に行ってきました。
東北線の駅名では水沢です。今回のセミナーは亀井亜理先生が世話人を務めてくださいました。新幹線が駅に着くころには心配することもなく大雨も止んで、水沢江刺の駅前にはタクシーが何台も待っていました。初日の会が行われた宇宙遊学館は昔のて天文台の跡を改修したこぎれいな建物でした。

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水沢は広大な盆地で、胆沢盆地、胆沢平野とも呼ばれています。平野と言う大仰な名称もなるほどと言う広さで、その名前は「胆沢平野土地改良区」に残っています。

殊に新幹線の水沢江刺駅からですと北上川を西に向かってわたるあたりで見るこの盆地は広大で、9世紀の朝廷が坂上田村麻呂を征夷大将軍として送り国を挙げてこの地を蝦夷から奪い取ろうとしたのも良く理解できます。それを描いているのが、以前NHKで見たアテルイ(阿弖流為)の物語です。京都の清水寺の境内にもその阿弖流為の話を記した碑がありました。鎌倉幕府が義経征伐と称して奥州藤原氏を攻め滅ぼしたのも同じ目的を持った行為でした。

 胆沢扇状地は、北は金ケ崎町南辺の丘陵、南は奥州市衣川区を境とする丘陵に挟まれ、東は北上川に緑取られた扇形をしています。扇の半径は約20km、中心角は約35度で、扇頂部の標高が約250m、扇端部では30~40mです。 扇状地の面積はおよそ15,000haで我が国でも最大級の広さです。行政区域は奥州市(水沢区、胆沢区、前沢区)、金ケ崎町にまたがっています。

名取市、岩沼市あたりから仙台市を越えて宮城県北部の大崎市辺りまでつながる仙台平野に並ぶ大穀倉地帯に見えましたが、実は一関や平泉から北のこの地域は長い間水不足に悩まされる土地であったようです。そのころの伝承が「胆沢平野土地改良区」のページに採録されています。

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その中から「大堤の人柱」を引用します

 浪華の武士盛遠は、町人の娘と恋におち、娘は自害する。盛遠は武士を捨て、名を文覚と改め、みちのくに逃れてきて農業を始める。文覚は堤の築造に情熱を傾けるが、堤は二度も決壊し、地域の人びとが人柱を主張するものの、文覚は、残酷なことをしなくとも堤はできると言って対立する。しかし、三度目の堤も決壊する。

S0065097(清澤注:これは長野県出身の彫刻家、荻原碌山の文覚:彼の代表作ですがこういうお話との関連は知りませんでした。)

 やがてまた、大堤の工事が始まり、人柱のことで文覚が悩んでいると、彼の前に人柱を申し出てきた娘が現れる。娘は浪華の商人の娘であったが、育ての母が世を去る時、わけあって娘の両親がみちのくに逃れていることを知り、訪ねて来てみたら、実の父母も亡くなっていた。人柱の話を聞いて、村人のためにと人柱になる。その娘は、文覚が結ばれなかった昔の恋人そっくりであった。大堤は数百年経っても決壊せず、文覚は堤の上に碑を建てて、娘を供養したというのである。」

 更に調べてみると、文覚は頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、 配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか八日で院宣をもたらしたと言ったような積極性に富む活躍の記載が平家物語に有るようです。しかし出家の原因を『源平盛衰記』は、 従兄弟で同僚の渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとするそうです。

ダムを作って足りない水を平等に分けるように工夫したのがこの大きな噴水のように見える円筒分水工だそうです。
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円筒分水工は、胆沢平野の二大幹線水路である「寿安堰」、「茂井羅堰」が胆沢川から直接取水していた時代の血を流す水争いを解消したそうです。平成元年度に着工した国営胆沢平野農業水利事業で平成7年度に改修され、一回り大きくなっって農業用施設の円筒分水工としては日本一とのことでした。

取り留めもない話になりましたが、今日はこの辺で。

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