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2013年7月7日

4539 平家物語 『敦盛の最期(中学生の国語)』を読みました。

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一の谷の戦も終盤になり、源氏の武将熊谷次郎直実は、よい敵を探していました。そこへ舟へ逃げようとする武者(敦盛)の姿を見つけます。 熊谷が呼び止めるとその武者は引き返してきます。組み伏せて顔を見るとまだ17歳くらいの若武者です。 熊谷は我が子小次郎の姿が重なり敦盛を逃がそうとしますが、 後ろを見ると源氏の大群が迫っていました。せめて自分の手で討ち取り、後世を弔おうと、熊谷は泣く泣く敦盛の首を取るのでした。
腰にさしていた笛を見て、その若武者が敦盛とわかります。 熊谷は戦場に笛を持参するという敦盛の風流さに感嘆し敦盛を討った ことを悔い、これが後に出家するきっかけとなりました。
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清澤の調査項目:

熊谷直実の父・熊谷直貞は平盛方の子で熊谷家の養子となったという家系で、直実は源氏方の武将ではあるものの、坂東平氏の血を引く流れである。石橋山の合戦後に頼朝に付いた人なので、友軍には平家方に寝返るのではないかと言う目でも見られていた。

当日の朝、直実の嫡男直家が戦死していたというのは脚色であり、実際には腕に大怪我を負っていたが、後には家督を継いで53歳で死去している。それで、この若武者にも情けを掛けたという設定。

敦盛は笛の名手であり、この笛は祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛だったということです。

直実は、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた。弟子が法然に取り次ぐと、法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという。家督を嫡子・直家に譲った後、1193年頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)。蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られている。後に京から本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵で、念仏三昧の生活を送った。高野山には直実と敦盛の墓が並んである。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。

「敦盛」はこうして17歳で死にますが、その物語はのちの武将にも愛されます。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の正しい意味は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」です。特に、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣しました。『信長公記』

こちらは本格的な平家琵琶の演奏です。多少長いですが。

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