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2013年3月13日

4159 抗命の軍将 嗚呼、インパール 佐藤中将の悲劇 (杉田幸三)を読みました

抗命の将軍 嗚呼、インパール 佐藤中将の悲劇 (杉田幸三)を読みました

 第二次世界大戦末期、日本軍の南方方面軍に属するビルマ方面軍の第15軍は第15師団、第31師団、そして第33師団の3個師団がビルマからインド東部のインパールに攻め込みます。しかし、適切な物資の補給が為されず、殆ど全滅の危機に陥ります。はじめからその作戦に疑問を持っていた第31師団長の佐藤幸徳中将は、牟田口中将ら軍上部からの命令に背いて、自分の指揮する部隊を補給が可能な地域まで後退させたとして、解任されます。佐藤は後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という有名な言葉を残しています。(迂遠ビデオはその状況を説くNHK番組です。)

 此の転進は、共にインパールを攻撃していた第15師団及び第33師団の敗北をも決定づけ、また、殿軍を任された31師団の一部部隊(宮崎少将麾下の歩兵団には同地コヒマの死守を命令)にも知らされなかったという批判もあります。佐藤中将は自らが抗命の罪で死刑になることへの覚悟は有ったようですが、軍の中での責任問題が明らかになることを恐れたビルマ方面軍及び陸軍首脳は佐藤中将が精神的な疾患を持っていたとして軍法会議に掛けることもせず、事件を闇に葬ります。

 彼の行った判断は、多くの日本兵を無意味な死から守ったともされ、それに感謝したたえる碑もありま素。が、その正否は戦後まで問題とされ、現在に至るというお話です。
 視点は変わりますが、敗け戦に終わり、将兵や住民を悲惨な目に合わせたという批判はありますけれど、このような日本軍の働きが東南アジア諸国の戦後における独立を為さしめる大きなきっかけになったということは、日本人として忘れるべきではない事実であろうと思います。

 この本には、旧日本軍が命令への服従という形式と体面を重んじ、実際には実行できない様な作戦を前線部隊に強いて、遂には全滅に追い込んでいったという悲劇が記載されています。日本軍における抗命という意味では2、26事件に次ぐ大規模で決定的な事件で有ったようです。

 私の神経眼科の恩師、桑島治三郎先生からは此のインパール作戦のお話を何度も伺いました。部隊の編成地を見ますと、それが仙台ですので、先生が属していたのは第33師団の野戦病院という部隊だったのかもしれません。第33師団は日中戦争開戦後、占領地の警備や治安維持を目的として1939年(昭和14年)2月7日に新設された師団の一つで、宮城県仙台市で編成されています。通称号は「弓」で知られます。編成後、ただちに中国戦線に投入、第11軍戦闘序列に編入され湖北省に在って、ほかの治安師団と同様に1939年夏以降に行われたさまざまな治安作戦に参加し、その後1941年(昭和16年)4月に華北に転用され山西省に駐屯したとされます。ビルマ攻略戦は、太平洋戦争開戦後、第15軍戦闘序列に編入されビルマ攻略戦に参加、1942年(昭和17年)1月にバンコクからビルマに向かう、5月末には第15軍によりビルマのほぼ全域が占領された(第一次アキャブ作戦)とされています。しかし、インパール作戦以後の第33師団の記載はありませんでした。また調べてみたいと思います。

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