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2013年3月3日

2122 今日は楽しいひな祭り 玉眼そして謎の人形師 原舟月について

サトウハチロー:作詞 河村 光陽作曲  ひなまつりは、春の訪れと女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。作詞は楽しい詩なのに作曲は短調で何となくさみしい感じになっています。 歌詞の中に官女から嫁いだ姉を連想していますが、嫁ぎ先が決まった矢先に18歳で結核で亡くなったサトウハチローの姉のことを歌っているもののようです、と解説されていました。なんという、ああなんという。

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ひな祭りですね。3段飾りの雛人形

「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。「女雛」の髪型は主に「大垂髪(おすべらかし)」と「古典下げ髪(こてんさげがみ)」がある。「大垂髪」は、平安時代からの垂れ髪形式が鎌倉・室町を経て、江戸時代後期に完成された比較的新しい髪型で、ビン(前髪部分)を大きく張った髪型である。
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 江戸の古今雛には原舟月などの作家ものがあり、ガラス製の玉眼も比較的早く用いられた。京都製に玉眼が入るのは幕末である

ぎょくがん【玉眼】; 木彫像に用いられる水晶製の眼。眼球の部分をくりぬいて頭部内の内ぐりと貫通させ,内側から凸レンズ状の水晶の裏に瞳を描き,後ろに綿か紙を当てて白眼の部分とし,全体を当て木で押えて竹釘で留める。彫眼に対して独特な写実的効果をあげる。仁平1年(1151)の銘をもつ奈良長岳寺阿弥陀三尊像を初例とし,平安時代末期に始まり鎌倉時代以降,時代の写実的な美意識に支えられて盛んに用いられた。中国には同様の技法は知られない。
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さてここまで調べたら原舟月という名前が出てきました。そこで少し調査してみました。

1)初代 原舟月(法眼)
幼名は不明だが、通称を金五郎といった。
没年  寛政元年(1789年)9月9日京都にて没 
泉州堺(大阪府堺市)の出身で、狩野派の絵師として、また根付師として活躍していた。
安永七年(1778年)頃に、人形師として妻とともに大阪から江戸へ下り、安永八年(1779年)に日本橋の十軒店に雛人形店を開き、従来の俗に「古雛」と呼ばれた人形よりも、華美を尽した「古今雛」を売出した。腕も良く店は大繁盛したが、江戸では造られてはいなかった、御殿雛を手がけたことにより、奉行所に呼出されわずか七年の江戸滞在で江戸所払い(江戸追放)となってしまった。現存する作品はほとんどない。
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 2)二代目 原舟月 (古今亭原舟月) 通称は金太郎。
没年  天保15年(1844)8月27日
作品 ・神田祭一番 大伝馬町「諫鼓鶏」(かんこどり)ほか。
神田丸太河岸の材木問屋の次男として生れ、十軒店の人形店を熱心に見学しているときに声をかけられ、13歳で初代舟月に入門。
 初代と同じく幕府の8寸より大きい雛人形を造ることを禁止した、華美を禁止するお触れに違反して、罰金刑と雛人形の没収を受けている。後妻との間に長男徳太郎(後の三代目)をもうける。
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3)そして実は名人と言われるのは三代目 原舟月(法橋) (古今斎原舟月)

名前 原徳太郎、通称を初代と同じく金五郎と名乗った。あだ名は、「お嬢っ子」。5歳の時に母親を亡くし、母親代りの姉が年頃になっても、女物の服を着せていたかららしい。

出生  文政9年(1826)1月11日
没年  明治32年(1899)3月31日

作品 ・神田祭十一番 豊島町「豊玉姫」1861年作 1904年に「久月」で修繕
・神田祭二十七番 神田鍛冶町「三条小鍛治」ほか多数。山車の上に飾られる大作の人形の作品が多い。

その生涯は、 二代目舟月の長男であり、10歳の時に病床の二代目から跡を継ぎ、名匠とうたわれるまでになり、数多くの山車と山車人形を残す。栃木県内の山車作品が多く、明治の最初のころには、宇都宮市に移り住んで製作に携った。
 何度か結婚しているが子供はなく、跡継ぎもいなかったため、三代で終り。

 三代目が亡くなっても、日本橋十軒店の人形店は賑わいを見せていたが、没後5年経った明治37年に日本橋三越が新装開店し、雛人形を正札販売にて扱うようになり、江戸時代より続いた伝統ある雛市が、急速に衰退していったそうです。(出典) その墓は日暮里にあるそうです。
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