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2012年12月12日

3884 聚楽第はどこにあったのか?

先日ご紹介した「のぼうの城」では、秀吉が光秀に既に開城を伝えてきている忍城の攻略を聚楽第で言いつける場面が出てきました。史実に照らして、あの場面が正しかったのかを検証してみました。

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あの映画に出てくる聚楽第の建物は西本願寺に現存する飛雲閣で、これは聚楽第から移築されたという言い伝えもあり、国宝に指定されている建物です。しかし、聚楽第は関白秀次事件に関連してたった8年で棄却されているので、歴史的に秀吉が小田原征伐を行った時に本当に実在し、そのような号令を出す場所であったか?ということが気になったわけです。
20121005-756462-1-N歴史の教科書にも聚楽第は出てくるのですけれど、聚楽第という建物がどこにあったかということはあまり知られてはいません。実はこの建物は、平安京の大内裏の跡に作られた城郭で、その周りには有力な大名に壮大な屋敷を作らせ、その周りには町屋も伴う大きな政治都市であったようです。現在でいうと京都御所の西であり、西陣の南、二条城の北あたりにあったようです。当時は荒れ果てた場所だったとも言われています。

g007_zu2当時は周りに堀がめぐらされた豪壮な平地の城で、ここには天皇が二度までも行幸しています。

天正13年(1585年)四国攻め・四国平定。同年7月11日には関白相論に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。

天正14年(1586年)には豊臣の氏を賜り、太政大臣に就任し、政権を確立(豊臣政権)。

九州征伐
天正15年(1587年)には秀吉自らが20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津義久を降伏させる(九州征伐)。九州の役完了後に博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。10月1日に北野天満宮で千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催(北野大茶会)。平安京旧大内裏跡付近に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え聚楽第(じゅらくてい。聚楽亭)と名付ける。

天正16年(1588年)聚楽亭(聚楽第)に後陽成天皇を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。同年には刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した。

天正17年(1589年)秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。

天下統一
天正19年(1591年)、後継者に指名していた鶴松が病死。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。

文禄の役
文禄元年(1592年)、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。

秀次事件
文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻化。

文禄4年(1595年)、秀次を廃嫡し、謀反の容疑で切腹を命じた。

かくして本論の主題である聚楽第は破却されることとなった。1987年から1995年までその寿命は僅か8年であった。小田原征伐の1989年における秀吉の地位は関白太政大臣であり、その命令はやはり聚楽第で発せられたと考えるのは妥当であろう。、

秀吉の死後に石田三成が徳川家康に敗れる関ヶ原の合戦は小田原征伐から11年。聚楽第の破却からであればわずか5年です。平家ではありませんが諸行無常というべきでしょうか。

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