お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2012年10月28日

3755 戦国鬼譚 惨 (伊藤潤 著)から、「木曽谷の証人」を読みました

3755 戦国鬼譚 惨 (伊藤潤 著)から、「木曽谷の証人」を読みました
96D8915D8B608FB991E5
この本によれば、本能寺の変で信長が横死したのは織田信長が徳川家康の助けを借りて信州に攻め込みそれまで甲斐と信濃を領有していた武田家を滅ぼした天正10年(1582年)のうちでした。木曽の谷は木材の産地として今も知られますが、材木というものは大昔から山に行けば生えているというものではなく、米のように計画的に毎年の生り物が切り出されていたものだったようです。江戸時代になって、木曽氏から尾張藩徳川家にその主が変わってから、木一本首一つというほどに盗伐に対する管理はさらに厳しくなりましたが、それ以前も山を順に育てては伐るという森林経営がなされていたようです。

武田信玄の後を継いでお館様となった四朗勝頼は、父を信玄に殺害され諏訪家を奪われた諏訪御寮人と武田信玄の間に生まれた庶子であり、本来は家長になれるような出自ではなかったのですが、父に愛され武田家を継ぎます。しかし、優れた父に比肩する武将であろうとするコンプレックスのためか無理な戦を重ねてしまい、徐々に支持を失ってしまい、やがては武田家の滅亡に至るのです。

中小の領主である木曽家はその武田家から嫁を取り、武田家の親類として重要な地位を占めるのですけれど、最終的には武田軍団の中では真っ先に織田方に寝返ることになります。5000本もの檜を韮崎築城のために要求されたことと、その数年前の高天神城の戦で武田勝頼が城兵600を見殺しにしたことも、木曽家からの武田家に対する不信の原因だったと記されています。

この本の第一部は「木曽谷の証人」この間の出来事を記しています。織田に寝返るという話は人前ではできませんが、木曽家当主の木曽義昌(木曽福島に館を持っていた)は武田に着くべきか織田に寝返るべきか悩みます。弟の木曽九郎次郎義豊(木曽上松に館を持っていた)は木曽の民と山を守るためには織田方に寝返るほかないと強く主張しますが、母と子を人質にとられていた兄には聞いてもらえません。弟義豊は
やむなく妻と二人の男児を殺害してその首を兄に渡すことで兄を諫め、みずからは織田方である岩村城主遠山氏の人質になります。そして、その影響もあって木曽家は織田方に寝返ったという説明です。

木曽で生まれた私は、母方の祖先の名字くらい出てこないかと思いながら買ってきましたが、出てはきませんでした。

武田家は裏切りが疑われた洗馬の三村氏の兵300人をだまし討ちにしたことなども伝わっていて、松本のあたりでは上杉謙信のファンが多く、実際に中南信(信州の中部および南部)を一時支配下に置いた武田信玄はあまり好かれてはいません。

この時代の戦国大名は、何としても勝てなくてはなりませんでした。そうでないと部下も領民もあっという間に敵方に寝返ってしまい、大家でも立ち枯れてしまうからです。したがって、中小の領主はこの戦がどちらの勝に終わるのかを冷静に推測し、自分の立場を決めなくてはならなかったのでしょう。

この物語が終わったのち、天正18年(1590年)、徳川氏の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石が与えられて木曽氏は千葉県に移封されてしまいます。そこについて行った人々もおりましょうが、家臣の多くは中山道沿いの宿駅に残った事でしょう。

しかしその旭にうつされた木曽氏も、慶長5年(1600年)次代の義昌の子供が、義昌の義豊を殺害したという事件をとがめられて廃絶されてしまったと聞いています。徳川家康が木曽義昌を嫌いだったのか、あるいは木曽の山林を幕府が占有しようとしたのかも明らかではありません。

武田勝頼の敗退、失敗、木曽義昌の流転には学ぶべきところは多そうです。
ーーーーーー

Categorised in: 未分類