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2012年5月12日

3313 汽車製造株式会社の回顧写真展を見てきました。

250px-JNR233SteamLoco汽車製造株式会社の回顧写真展を見てきました。場所は東陽町にある江東区役所の隣です。(かつて汽車会社が作った蒸気機関車、この頃の工場はおそらく錦糸町か)

吸収合併されてそののちに工場も閉鎖されてしまった会社の歴史はなかなか後世には伝わりません。戦前から昭和40年代までは力のあった会社ですが、この汽車製造と言う会社も今は歴史の中にうずもれています。

map38(昔の都電と明治通り、永代通りに囲まれた一角がかつての汽車製造会社の跡地です)
南砂2丁目には巨大な都立住宅が有って、そこの住民のほとんどは地下鉄の南砂町駅ではなくて、東陽町駅の東口を使っていると思うのですが、それがかつて汽車製造会社の東京工場が有った場所です。(南砂街は途中で番地名の変更が有り、昔の4丁目が今は2丁目になってますし、東砂や新砂も昔は南砂の一部だったようですのでご用心。)

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(今は無き汽車会社東京製造所で新造中の103系の車体。地表転がっているのは溶接用のガスボンベ? 1967-? Photo by 一次休車 とのキャプションのある写真、ネットで見つけました)

今日の写真展では汽車製造東京支社の社内報に、乗った興味深い写真も多く出ていました。

南砂に有った東京工場を南側から取った昭和初期の写真も出ていてました。その写真を見ると、今の永代通りの南側がそのまま海だったのが印象的でした。

kishakk02これも同じブログからの写真。(同じく汽車会社で製造中のパキスタン国鉄向け客車、軌間が異常にワイド、もしかしてブロードゲージかも
1967-? Photo by 一次休車)この人ならこのような東京製造所の生資料を沢山持っているかもしれませんね。

工場の内部や全景の写真は今では驚くほどわずかしか残ってはいません。この展示もかつてこの会社が製造して出荷した蒸気機関車のカタログ写真などが中心です。特に戦前は軍事機密扱いでも有ったのでしょう。戦後も企業秘密だったのかもしれません。

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NO.1018 東海道新幹線 0系22形 22-75 (静態保存車両) 2005/4/10 ※1969年汽車会社製造、1985年3月廃車だそうです)

最も活躍したのは、新幹線の所期の車両を製造した昭和37年頃だったようです。地下鉄の最初の車両の多くも此処で作られていたそうです。

パナマ運河に輸出された牽引車をテストするために土盛りして50度の斜面を作ったパナマ山の話も有りました。

この話を帰宅後に別の方のホームページで見つけました。そこには次の記載が有りました。

 パナマ運河に輸出された牽引機関車の「製造は電気装置とウィンドラスを東洋電機(横浜工場、戸塚工場:横浜市)、車体・艤装を汽車会社(砂町工場:東京都江東区)、歯車装置を新三菱重工(三原製作所:広島県三原市)、ツィンディスククラッチを新潟コンバーター(加茂工場:新潟県長岡市)で分担しました。汽車会社の砂町工場に小山を築き、客先から貸与されたラックを用いて50%勾配を含む試運転線を建設、試運転は東洋電機の試験員の手で実施しました。
 1961年9月、試作車完成時にはパナマ運河会社関係者をはじめ、十河国鉄総裁以下国内からも約500名の方を招待して数十回の登坂テストを含む公開試運転を実施、帝国ホテルで完成披露の祝賀会も開かれました。」

と言うことです。

新興の車両製造会社に押されて、汽車会社の経営は追い詰められていった様です。当時川崎重工業の経営も苦しく、それを支える第一銀行も絡んで、汽車会社の川崎重工への吸収合併が行われた。そして、間もなく汽車会社の東京工場は閉鎖されて消滅し、大きな都営住宅に変わっていったという歴史だったようです。

会場では、先日この写真展覧会の案内を下さった小父さんに(市川市の鈴木さん)もお会いして挨拶を致しました。この工場の建物配置図面なども有るともっと現実味が増すと思いました。ネットで見つけた関連写真を張ってみます。

写真展は本日までです。

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