お問い合わせ

03-5677-3930WEB

ブログ

2011年8月27日

2552 失明戦傷病者:歴史を克明に展示中 東京・しょうけい館

11-shoukei-713
九段下に有る東京・しょうけい館では失明戦傷病者がたどった歴史を紹介する展示が行われているそうです。当時「戦盲」と呼ばれた失明戦傷病者は、敗戦で支援の多くが廃止され、食糧難や就職難の影響を強く受けたのだそうです。

私の小学校の同級生Sさんのお父さんにも、按摩を業としているそんな方がおりました。

追伸:28日午前、子供を連れていってきました。実際に行ってみますと成程と思う部分が多かったです。場所は九段下交差点に面した昭和館(戦中戦後の展示館)から東に50メートルほどの所でした。展示されていた昔の会報を見ますと、太平洋戦争頃に戦争で両眼失明した方は100人程度おられ半数が鍼灸按摩の職についていたそうです。
現在の国立病院の多くは旧陸軍や旧海軍の病院に期限があります。パリにはアンバリッド(廃兵院)という大きな建物が市内に有りますが、日本にもそのような施設が病院とは他に有り、戦後に廃止されていったようです。

ーーー記事の引用ーーー
失明戦傷病者:歴史を克明に 東京・しょうけい館で今治出身・故原田さん紹介 /愛媛◇来月25日まで

 日中戦争で失明した今治市出身の故原田末一さん(1896~1999)の歩みを中心に、当時「戦盲」と呼ばれた失明戦傷病者がたどった歴史を紹介する展示が、東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」で開かれている。原田さんは失明後、出征前の職業だった教師に復職。戦中に自身の体験を書いた手記はベストセラーとなり、戦後は傷病軍人の福祉に努めた。9月25日まで。無料。【津島史人】

 原田さんは、1937年11月、戦場で両眼を負傷し失明。39年、出征前に勤務していた今治市立今治青年学校に復職した。失明を乗り越えた軍人の模範としてメディアに伝えられ、手記「戦盲記」(43年発行)はベストセラーとなった。同書は点字に訳され、全国の失明戦傷病者に配られた。

 生徒にも慕われた。空襲で自宅が焼けた際は、教え子たちが真っ先に駆けつけて家の再建を手伝ったという。

 戦後、元軍人だったことから公職追放で教師を辞めるが、傷病軍人の福祉にかかわる活動に取り組んだ。晩年は書道にも取り組み、周囲への感謝を表現する作品を残している。

 戦時中、国は失明戦傷病者を生活、雇用にわたり積極的に支援。原田さんらも、ラジオや集会で自身の体験などを話した。しかし、敗戦で一転して支援の多くは廃止され、失明戦傷病者らは食糧難や就職難の影響を強く受けた。その後、新しい職業の開拓や教育の発展に取り組むなど、活躍する人が現れた。71年には「日本失明傷痍軍人会」が結成された。

 展示は、原田さんの遺族から贈られた遺品約200点のうち、手記や写真、書など約70点。原田さんの歩みに合わせて、失明戦傷病者が置かれた状況を戦時下、終戦直後、戦後と時代ごとに説明している。

 同館の木龍克己学芸課長は「知られざる失明戦傷病者の歩みに加え、戦争で負ったハンディを乗り越えた人がいたことを知ってもらうことは、意味がある」と開催の意義を話す。

 問い合わせは、しょうけい館(03・3234・7821)。

毎日新聞 2011年8月27日 地方版
ーーーーーーーー
清澤の追加コメント:眼科に関連するお話では、お茶の水井上眼科病院の7代院長井上達二が日露戦争の戦傷で視野の一部を失った方々のデータから視野の脳内への投射を世界で初めて明らかにしています。(このお話はこちらの9ページに出ています)

また、株式会社 アツザワ・プロテーゼは今でも義眼の代表的な制作会社ですが、その先祖はガラス製の義眼を開発し戦争で眼球を失った兵士には天皇からとして恩賜の義眼が贈られたと聞いています。(株式会社 アツザワ・プロテーゼにリンク

11-shoukei-713

Categorised in: 未分類