お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2011年7月3日

2404 日本橋の貨幣博物館へ和同開珎を見にゆきました

home_roll

和同開珎は日本で初めて作られた銅貨として知られている物なのですが、その本物を見に日本橋に有る日本銀行の本店の分館に行きました。

まずこの文字を”かいほう”と読むのか”かいちん”と読むのかというお話です。

nm005
これがその図ですが、当時のわが国の人々は貨幣になじみがなかったため、朝廷は貨幣の使用を強制したり、貨幣を蓄えた者に位階を与えるといった流通促進策をとって普及に努めたそうです。
 読み方については正式な記録がなく、「珎」を「寶」の略字として「ホウ」とする説と、「珍」の異字体として「チン」とする説とがあるという説明でした。
nm019
まあそれで終わりで良いのですが、日本で作られた一番大きな金貨として知られるのが、天正大判。武田信玄が金を使った金貨を作りましたがその額面単位は、「両」=約15g、
「分」=1/4両、「朱」=1/4分、という4進法・2進法によっているたのだそうです。この単位のうち、両・分・朱の4進法の単位は、江戸時代の幣制において金貨の単位として踏襲されたそうで、大判というのは小判10枚分の150gというわけだそうです。

天正大判(天正長大判)(1592年以降)は金製(品位70~74%)ですが、通貨として使われたわけではなくて、恩賞として秀吉が臣下に与えるような使い方をされたようです。150グラム程度の薄い板状で、重い感じはしませんでした。

徳川幕府は貨幣の統一に着手し、金銀貨についてはいち早く統一貨幣を発行しましたが、流通量の多い銭貨についてはしばらく渡来銭の流通を認めたのち、寛永通宝に統一したということです。寛永通宝はその後約200年間、全国各地の「銭座」において作られたましたが、江戸時代中期以降になると増鋳の必要性から次第に素材は劣悪なものになり、真鍮製の寛永通宝四文銭や、銅一文銭の五文半程度の原料にもかかわらず百文として通用する、天保通宝百文銭なども発行されたということです。

寛永通宝これが一文の銅銭の寛永通宝、そして次のが真鍮製の4文銭です。

nm042

そしてこれが天保銭です。普通の寛永通宝100枚に相当したのですね。
nm043

子供にはそれほど面白くのなかったようですが、小学生の子供を連れて一度は見に行く価値がある博物館でした。

Categorised in: 未分類