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2011年6月24日

2375 「没後100年 青木繁展--よみがえる神話と芸術」です

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青木繁と言えばブリジストン美術館所蔵の「海の幸」が有名だと思いますが、その展覧会が開かれているそうです。文芸史の上で「浪漫主義」と呼ばれる時代に、突如彗星(すいせい)のように登場し、わずかの間輝かしい光芒(こうぼう)を放って消え去った天才、それが画家青木繁だったのだそうです。
間もなく東京日本橋のブリジストン美術館にも巡回してきます。(今日の「眼」のニュース)

目は語る・アート逍遥:6月 青木繁の画業=高階秀爾
 ◇大胆な発想と新鮮な自然表現
 「遂(つい)に、新しき詩歌の時は来りぬ」

 島崎藤村が『藤村詩集』の「序」においてこう高らかに宣言したのは、1904(明治37)年のことである。この詩集は、1897年刊の第1詩集『若菜集』以下、『一葉舟』『夏草』『落梅集』に収められた詩をまとめたもので、その清新な叙情性は、まさしく新しい時代の到来を告げる呼び声として、人々のあいだで熱狂的に迎えられた。

 この同じ1904年、第9回白馬会展に、青木繁(1882~1911)の「海の幸」が出品される。当時青木はようやく22歳、前の年に同じ白馬会に日本の古代神話に想を得た作品を出品して、白馬会賞を得たばかりであった。黒田清輝の率いる白馬会は、その明るい外光表現によって洋画界に新風をもたらす存在として注目を集め、「新派」と呼ばれていた。若い青木繁は、このような新しい時代の雰囲気に敏感に反応したと言ってよいだろう。ついでに述べれば、文学愛好家でもあった彼は、5年前、画家を志して故郷の久留米から上京する時、藤村の『若菜集』の一巻を携えていたという。

 だがその活動は長くは続かなかった。その後も、優れた作品を残しながら、やがて病魔に侵され、1911年、29歳に満たない短い生涯を閉じることとなる。文芸史の上で「浪漫主義」と呼ばれる時代に、突如彗星(すいせい)のように登場し、わずかの間輝かしい光芒(こうぼう)を放って消え去った天才、それが画家青木繁であった。

 現在、京都・岡崎公園の京都国立近代美術館で開催されている「没後100年 青木繁展--よみがえる神話と芸術」は、この夭折(ようせつ)の画家の全貌に迫る大型企画展である。出身地久留米の石橋美術館を中心とする多年の調査研究に基づくその内容は、油絵、スケッチ、デッサンなど230点余にのぼる作品と、書簡、原稿、その他多くの関連資料をそろえて、見る者を圧倒する(7月10日まで、次いで東京のブリヂストン美術館に巡回)。
wadatumi「わだつみのいろこの宮」

 青木繁の芸術を養った根は三つある。第一は日本の神話や歴史、さらには旧約聖書など豊かな彩りに満ちた物語世界である。無類の文学好きであった彼は、東京美術学校時代、しばしば上野の図書館に通って読書に時間を費やしたという。それと同時に、多くの画集や複製を通じて、同時代の西欧世紀末芸術の成果も意欲的に吸収した。彼は生涯日本を離れることはなかったが、その鋭敏な感覚は、モローやラファエル前派などの華麗な官能性や神秘的表現に強く共鳴するものをもっていた。そして第三に、自然、それも光に満ちた明るい自然を見つめる新鮮な眼(め)である。この眼はまた、当時の新しい時代の眼でもあった。

 藤村は、冒頭に引いた詩集の「序」のなかで、「伝説はふたたびよみがへりぬ。自然はふたたび新しき色を帯びぬ」と述べたが、青木繁の画業は、それとまさに符節を合わせたような展開を見せている。

04_11_aoki 実際、きわめて幻想的な「黄泉(よもつ)比良坂(ひらさか)」や卓抜な構成力を示す「わだつみのいろこの宮」は伝説を独自のやりかたで甦(よみがえ)らせたものであり、房州布良(めら)での鮮烈な海景や、夕焼けの海や洋上の朝日を描いた晩年の壮麗な作品群は、新しい自然の表現にほかならない。そして大胆な発想と新鮮な自然表現が一体となったところに、あの「海の幸」が生まれて来るのである。芸術創造の秘密にも迫る優れた催しと言えよう。(たかしな・しゅうじ=大原美術館館長、美術評論家)

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