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2011年2月20日

2060 江戸時代、新宿はどんなだったのだろうか?

玉川堤の花
この記事は、前の新宿御苑探訪記(リンク)の続編です、

第42景 玉川堤の花 安政3年(1856)2月 
このほかにもこの絵の虚構説はあちこちに出ています。
たまがわつつみのはな
ーーー引用ーー
(http://hiroshige100.blog91.fc2.com/?mode=m&no=60)
意外なことに、広重の江戸名所百景には実在しなかった名所も描かれている。 この「玉川堤の花」がまさにそれだ。 玉川堤の花、すなわち玉川上水沿いの桜の名所として知られていたのは、そもそも小金井であった。その小金井の桜並木の人気にあやかって、当時客引きに懸命であった内藤新宿が、新たに名所を作ろうと企てた。

実は、内藤新宿には、すでに享保時代に植えられた桜並木があった。 場所は、高遠藩内藤駿河守の下屋敷(現新宿御苑)北側の玉川上水沿いである。しかし、この上水は屋敷内を流れていたため、一般が花見を楽しめるような場所ではない。 そこで、もっとパブリックな場所を選んで、新たに桜を植えることにした。 所管役所(恐らく町奉行)の許可もとりつけ、安政3年(1856)2月、天竜寺裏の上水沿いに、大久保から移植した古木を中心に、大小の苗木と合わせ、約75本の桜を植えた。 その時、何らかの権威付けが欲しかったのだろう、この古木に許可なく  「御用木(幕府が植えた木)折取べからず」 という看板を掲げた。 しかしこの勝手な行為がまずかった。 このことが、官林の諸事一般を掌る御林奉行 (おんはやしぶぎょう)の耳に入り、結局、老中の指示でこの植えたばかりの桜が開花前に撤去されてしまうことになる。 つまり、この名所は誕生前に幻に終わってしまったのだ。 もうお分かりであろう、広重のこの絵は想像図、言い換えると、企画倒れの完成予想図なのである。
ーー引用ここまでーーー

新宿
86.四ッ谷内藤新宿
甲州街道の最初の宿駅、内藤新宿。元禄11年(1698)、信州高遠藩・内藤若狭守の下屋敷の一部を幕府に返還し、そこに宿駅を造った。馬継ぎの中継基地となり、町屋もでき馬喰たちで大いに賑わった。甲州街道は当時から多摩や秩父の奥から鉱物が、また農産物の集積地として馬や牛の産業道路となり、「四ッ谷街道、馬の糞」と呼ばれるほど馬糞が散乱していたといわれる。内藤新宿は、当時は四ッ谷大木戸の外にあったため、都会の江戸とは隔たりがあり田舎臭いイメージであった。それを広重は、馬のケツを大写しにして雰囲気を表している。左の旅籠や茶屋の奥の森が内藤家の下屋敷、その左奥に四ッ谷大木戸があった。
(http://hitorishiz.exblog.jp/10523763/よりの記述)

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