お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2010年12月21日

1912 木曽路須原宿に帰ろう ルーツ探しの小旅行その1

広重須原
7時に診療を終え、8時のあずさに飛び乗って松本に帰る列車の中でこの記事を書いています。

明日訪ねることになっている須原宿は「中山道六十九次」の中で39番目の宿場で、木曽谷の中では一番古くに栄えた歴史ある宿場町です。広重も有名な浮世絵を残しています。急な雨にあって雨宿りの為に駆け込む旅人、この場所は定勝寺の山門前辺りの絵だといわれています。

ここ須原が私の生まれた村で、西尾というのが母の生まれた家の苗字です。今回子供を連れ、母に連れられて15年ぶりにここを訪ねる小さな旅を計画しました。

定勝寺は須原宿を象徴する建物です。臨済宗妙心寺派の寺で左右に3段に別れた床の間は定勝寺式と呼ばれる有名なものです。この件は後に詳しく述べますが、ここは、その昔戦国大名木曽氏の館があった場所であると言い伝えられています。私の母方の祖父母の墓はここに有ります。
ーーーーー
そもそも須原を含む木曽谷の南部一帯は、小木曽庄であったようです。
小木曽庄は鎌倉時代に仁和寺領として成立し、南北朝時代に高山寺領に変わったものです。木曽義仲が活躍したのは、それよりもかなり前の平安時代末期のことです。十四世紀半ばにはその地頭として真壁氏がいたことが知られています。小木曽庄は木曽谷の南部に比定されており、今の大桑村須原がその中心をなし、北は上松、南は三留野ぐらいの範囲であったようです。

つまり、木曽氏が木曾福島を中心に勢力を扶植していた頃、南部には地頭の真壁氏を中心とする勢力があったのですが、福島に根拠をもった木曽氏は、しだいに勢力を南下させ十四世紀の後半ぐらいから小木曽庄に権力を浸透させました。

 系図による木曽氏の動きで非常に不可解なことは、居館の位置が度々移動していることだそうです。

まず三代の義宗が沼田(今の南木曽町三留野)、五代の家仲は十三世紀の後半に岩郷(木曽町)、六代家教が十四世紀初めに須原(大桑村)に住むと、十一代親豊まで須原に留まり、十二代信道と十三代豊方は福島に移り、十四代家賢は高遠城が落ちたために再び須原に居館を移したといいます。

十五代家豊と十六代義元は須原に住みましたが、十七代義在は福島上之段に居館を築いて移り、以後は木曾福島が木曽氏の本拠となっています。木曽氏はこのように須原と福島を根拠地としました。

 十四世紀後半の木曽氏は福島を中心に勢力を持っており、戦国時代末の本拠地も福島です。須原は南部に偏(かたよ)りすぎ、交通路を押える意味でも福島ほどの要地ではありません。

 歴史的経過のゆえに、木曽氏は小木曽庄の中心地であった須原辺りを早くから木曽氏が勢力下に入れていたのだという伝説を作り、真壁氏の存在を覆い隠そうとして、先のような系図ができたのではないかという笹本正治氏の説もあります。(http://www.shimintimes.co.jp/yomi/shingen/27.html)
ーーーーーー

須原は中世木曽谷における政治の中心であって、木曽川左岸に典型的な山城の愛宕山城跡があります。この愛宕山の麓の定勝寺は、木曽義在の居館跡と云われ、愛宕山城は詰め城であったと推定されているそうです。しかし、中世後半の木曽谷を支配した藤原姓を持つ一族の木曽氏は、戦国期に居館と共に政治の中心を須原から北部にある福島へと移しました。

菅原家を祖とする西尾家は大永・天文年間(1522~1554)の頃から愛知県の西尾辺りから移って須原に住し、地域の開拓に力を尽しましたが、
木曽家の家臣としても重きをなし、西尾丹波守は馬術又武芸にも優れ、木曽義昌の信任が厚く、鳥居峠(木曾氏が羽柴秀吉に付いて武田勝頼にそむいた戦)や妻籠城の合戦等に参画転戦して、武功著しかったと伝えられています。

しかし、この木曽氏は天正18(1590)年、木曽義昌のとき、豊臣秀吉の命により、下総の網戸(現在は旭市)に移封され木曽の地を去りました。(木曾家は義昌の子の代で廃絶 (この間の事情は干潟八万石物語、木曾から来た戦国武将のページが詳しいです。リンク))

この時西尾家は須原に留まり、江戸時代には木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取締り等の責も担いました。

江戸時代に入り、須原は幕府領となり、元和元年(1615)から尾張藩領となりました。文録2年(1593)にはすでに宿駅機能があったようですが、正式には徳川家康によって慶長7年(1602)に宿駅が制定されています。

須原村の家数と人数は、享保12年(1727)では111軒・626人。宝暦3年(1753)では143軒・689人だったそうです。

はじめ宿駅は、木曽川べりにあったのですが、正徳5年(1715)の大洪水により、殆どが流失したので高台の富岡へ移転をはじめ、享保2年(1717)に完了しました。

これが、現在見られる須原宿の場所です。移転後の宿の長さは4町35間となりました。天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると家数104軒・人数748人。本陣1、脇本陣1、旅篭屋24、問屋2で、宿は上町・本町・中町・茶屋町・四軒町から成っていました。慶応2年(1866)の大火で半数近くが焼失し、現在の町並みは明治初年に復興したものです。

本陣は問屋・庄屋とともに木村家が勤め、脇本陣は問屋・庄屋も兼ねて西尾家が勤めていたそうです。

宿の南に定勝寺があります。木曽三大寺の一つに数えられる名刹です。永享2年(1430)木曽親豊が木曽川畔に創建したと伝えられますが、その後の洪水により度々流出しました。

現在の建物は、慶長3年(1598)豊臣秀吉の木曽代官であった石川備前守光吉が、木曽義在の居館跡(愛宕山城)に再興したものとされます。

天保9年(1838)の「木曽巡行記」では近くの宿場より谷深く、田畑も少なく、宿立悪く、貧民が多いと記載されていて、宿場稼ぎのほかには、山稼ぎや養蚕程度で特色ある産業はなかったと残念ながらひどい書かれ様です。

この地の名物には桜の花を塩漬けにして湯に浮かべて喫する「花漬」があります。

この宿場は国道がバイパスを通ったため、昔の町並がそっくり残り、今も落ちついた佇まいを見せています。

(http://matinami.o.oo7.jp/kousinetu/ookuwa-suhara.htmlを参考にしました)
ーーーーーーーーーーーー

須原宿には大木を切り抜いて作った「水舟」があります。綺麗な水が流れていて誰でも自由に水を飲むことができます。

西尾現在の西尾家です。

Categorised in: 未分類