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2010年9月12日

1658 本日は盲目の大国学者 塙保己一の命日だそうです。

hanawa
本日は塙保己一の命日だそうで生誕の地埼玉県本庄市ではお祭りが行われたそうです。盲人であるにも関わらず学問で大成した江戸時代の人です。ヘレンケラーも尊崇していたという話もあります。不遜ながら推測させていただけば、先天性緑内障だったのでしょうか?

ーーwikipediaより抄出ーー

塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) – 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改め、のちに保己一(ほきいち)と改名した。
『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。

5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修
験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかったという。

その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。

宝暦10年(1760年)、15歳で江戸に出、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せる。約3年間を盲人としての修行に費やし、17歳(二歳引くと15歳)で盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し、按摩・鍼・音曲などの修行を始めた。

しかし生来不器用でどちらも上達しなかった。加えて、座頭金の取り立てがどうしても出来ず、絶望して自殺しようとした。自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められた。

苦労の末、明和6年(1769年)に晩年の賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学ぶ。その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった。安永4年(1779年)、『群書類従』の出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心教百万巻を読み、天満宮に祈願する。

寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。
ーーー抄出終了ーーーーーー

ご存じのように、江戸時代の盲人は按摩や音曲で生計を立てることが多く、座を形成して暮らしを立てていたようです。検校というのはそのリーダーですが、総検校というのは江戸時代の盲人の中での最高位であり、15万石の大名並みの格式であったとも聞きます。

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