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2010年3月17日

1335 公慶上人像の左目の赤眼は何なのでしょうか?結膜下出血でしょうか。

koukei東大寺の大仏の再興に功績があった公慶上人の番組をNHKで見ました。公慶上人像の左目は赤いそうです。あの赤さは何なのでしょうか?

過労が続いていたという公慶の人物像の片方の眼を赤く作ると言うくらいですから、よほど周りの人には印象的だったのでしょう。視力を失っていたという伝承がないということを考え合わせて推定してみましょう。

まず、それは結膜下出血ではないでしょうか?
結膜下出血
164, 結膜下出血、hyposphagma:結膜下出血(けつまくか しゅっけつ subconjunctival bleeding, hyposphagma) 
この記事へリンク)痛くも痒くもない眼の、白目に急に出血して眼が赤く染まり、患者さんを驚かせる病気があります。これが結膜下出血です。(中等度の結膜下出血の図の出典:www.kfunigraz.ac.at/…/bh_hyposphagma.html)
しかし、これならば普通は2-3週間で消えてしまいます。わざわざ個人の遺徳をしのぶのに眼の赤い像を残すでしょうか?

biruikan
それとも涙が鼻に落ちる道が詰って慢性の涙嚢炎となり、結膜にも炎症が広がったものなのでしょうか。(これは、鼻涙管閉塞、鼻涙管狭窄 (涙道狭窄・閉塞、涙嚢炎)に解説があります。)涙腺から分泌された涙は角膜を潤し、角膜や結膜に酸素や栄養を与えた後、上下の瞼の内側の端にある涙小点から瞬きのたびに吸い込まれて、涙嚢と呼ばれる袋に集まります。ここから涙はほぼ真下に向かって、下鼻道と呼ばれる鼻の中に鼻涙管をおちてゆきます。この鼻涙管に通過障害を引き起こし、持続的な涙眼をおこすのが鼻涙管狭窄や鼻涙管閉塞です。その結果、涙嚢が炎症を持てば涙嚢炎です。この結膜炎はそんなに赤い眼は示しませんかね?眼やにが強く汚れた感じです。今ならナイロンの涙管チューブ留置で治療しますかね。

脳硬膜動静脈シャント
それとも海綿静脈洞部脳硬膜動静脈シャント(だったのでしょうか?詳しい解説にリンク)脳硬膜動静脈奇形とも呼ばれるこの病気は今も原因がよくわかってはいません。海綿静脈洞部脳硬膜動静脈シャントは頸動脈海綿静脈洞瘻(CCF;carotid cavernous fistula)とも呼ばれますが、その臨床症状では、徐々に増悪する結膜充血が特徴的です。眼圧上昇も特徴的で、これは上強膜静脈圧の上昇を反映しています。眼筋麻痺もしばしば見られます。MRIで上眼静脈の拡張を確認することは診断に有用ですが、確定診断や治療には血管内にカテーテルを入れての造影が行われます。これなら無治療でおけば数年間赤い眼を示すこともあるでしょう。

さて、公慶上人のお話です。
『ウィキペディア(Wikipedia)』で東大寺を見ると、戦国時代の永禄10年(1567年)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648年-1705年)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成したとされています。

公慶に関しては、公慶(こうけい、慶安元年(1648年) – 宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人。東大寺の大仏および大仏殿の再建に尽力した人物。丹後国(現・京都府北部)の生まれである。

永禄10年(1567年)の兵火によって大仏殿が焼失し、大仏が露座のままとなっていることを嘆き、江戸幕府の許可を得て全国に勧進、元禄5年(1692年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行った。

この功を認められて翌・元禄6年(1693年)には、護持院隆光の仲立ちにより、5代将軍・徳川綱吉に拝謁している。その後も西国に勧進を継続したが、大仏殿の落慶を見ることはなく、宝永2年(1705年)に江戸で没した。大仏殿の落慶が成ったのは宝永6年(1709年)、公慶が没してのち4年目のことであった、ということです。

中学の修学旅行で、建物の入り口で見上げた天井のあまりの高さに眼がくらむ思いをしたのを思い出します。その後天井が高い建物は様々見ましたが、あの感動はよそでは感じられませんでした。

今日は、公慶上人の眼の赤さは何だったのだろう?を考えてみました。
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