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2009年12月8日

1165 犀川通船記念碑を見ました。

松本へ子供を連れて再び母の見舞いに行ってきました。丸の内病院は、国道19号線と、上高地線の交差点付近の渚と呼ばれるところにあります。行きはJR松本駅から病院までタクシーで行けばよいのですが、タクシーを呼ばないと帰りは交通手段がありません。隣のショッピングセンターに来る松本市自慢のタウンスニーカーという100円のバスも、一時間に2本ですから、5分ごとに地下鉄が来ることになれたものとしてはまどろっこしい。やはり松本は自家用車で移動する世界なのでしょう。

 そこで、その渚から松本駅まで初冬に晴れた空の下を歩くことにしました。やがてたどり着いたのが、駅裏の巾上というところにある小公園。私の祖父(清澤清市、明治15年生まれ)が生まれた家のあるあたりです。最近でこそ区画整理がなされて、自動車も通りやすくなってますが、私が住んでいた昭和30年からの20年間くらいの当時は道巾もおせまく、なんとなく雑然とした地域でした。

 しかし、上高地に行く道が鉄道のガード下から通っているあたりには、田川と女鳥羽川の合流点あたりの川沿いには旅館があってみたり、なんとなく昔の花街のような気配が残っている不思議な地域でした。

犀川通船記念碑
 その巾上公園で、犀川通船の記念碑を見つけました。このさびれた一画が不思議な色合いを放っていた理由が分かった気がいたしました。ここには江戸時代の末期から明治の前半にかけて松本市の玄関ともいうべき船着き場が存在していたのです。当時の写真がなくて残念ですが、それなりの隆盛を誇っていたようです。

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犀川通船 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考に)

犀川通船(さいせんつうせん)は、江戸時代後期の天保三年(1832年)、白板の折井儀左エ門が江戸幕府の許可を得て開設された。かつて松本と上水内郡信州新町を結ぶ約60キロを7時間かけて下ったが、明治35年(1903年)に篠ノ井線が開通したことで廃止になった。

概要
犀川(信濃川の源流の一つで川中島で千曲川と合流するまでの松本平からの水を集める部分を犀川と呼ぶ)は江戸時代終わり頃から水運が盛んになった。文献によると、「犀川通船は天保3年(1832)から開始されたが、それまでに宿場筋からの反対が強く最初通船願が出てから実に94年を要している。

元文4年(1739)の通船願
延亨4年(1747)~寛延元年の通船願
暦10年(1760)の通船願
安永6年(1767)の通船願
文政5年(1822)~天保3年(1832)の通船願
示談成立
その後奉行のとりなしで交渉を重ね、ようやく天保3年1月28日示談が成立し通船を承認、次のような内容の規定書を取替わした。

一.宿継ぎ荷物は全部、たとい新規の物でも商人の買った物は船積みしない。
一.往来の旅人は勿論、武士の荷物、御用荷物、また懇意な者でも決して乗船しない。
一.通船品は米穀類、酒、麦、長木材、長竹、石、土瓦等宿方の支障にならない物に限る。
一.宿方では通船川筋へ見改所を設けて船荷を改め、もし取り極め以外の荷物を船積みしていたならば、
船荷品共に双方立合のもとに焼き捨て、通船を皆止める。

通船開始
儀右衛門は犀川の水量の少ない時は舟底をかみ難所もあることから、近国の諸川を見学、甲州富士川の航式をとり、同所より舟大工や船頭を雇い入れ、船幅を狭く船底を薄くし弾力を持たせた。」
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清澤のコメント:
驚くことに、松本と長野を結ぶ自動車が通行できる道路(現在の国道19号線)の開削は、篠ノ井線の開通よりもはるかに後のことであったようです。
(明治35年国鉄篠ノ井線が開通しその勢いは衰え、昭和12年国道犀川線開通により、その歴史的使命を終えています。)

 この犀川の川沿いには旧街道があって、そこで生計を立てている人々がいた宿場では、その船運の開設には強い反対があった。長い交渉を経て開設された舟運は明治初期にかけて隆盛を誇った。しかしそうしてできた航路も鉄道の敷設によって使命を終えたということのようです。それに伴い松本の街もこのあたりの巾上や白板を取り残す形で駅の東に向けて発展していったということのようです。

追加:犀川通船の船着き場から上流200メートルほどのところに私の祖父清一(旧姓田中)の生家があります。

私の叔父が清一の子供のころの悪童ぶりを記録して私たち親戚の若い者たちに夢を大きく持てと教えてくれた文章の一部(門外不出とされていますが、この部分には問題はなさそうですのでごく一部使わせて下さい。)ですが、当時の松本を偲ぶことが出来ます。このころの幅上(巾上)や私の祖父の生家はこの犀川通船の船着き場の近くだったわけで、この河原の野火は大騒ぎを引き起こしたことも想像に難くありませんん。

ーーー引用開始ーー
(20)田中清市、悪ガキで鳴らす

 父は明治15年(1882)、巾上町の父田中与惣次、母まさの三男で、外に姉たちが何人か居たらしいが、末子として生まれた。名は清市(せいいち)と言った。清澤家に来てから祖父源十没後、源十を襲名したことは先に書いた。祖父の没年と、父の襲名と、私の誕生が同じ昭和4年(1929)になる。

 子供の清市は手に負えない悪ガキで有名だった。巾上の自宅前に松本市内を貫流する女鳥羽川(めとばがわ)があった。この川下流では薄川と同じく田川に合流した。幅は三十米程。田川の川洲には葦(あし・又はよし、松本地方ではよしと言った)が沢山生えていた。冬にはそれが枯れる。この枯れた葦は土壁の芯として使われる。

 清市が枯れた葦に火を付けて遊んでいたら見る間に火が大きくなり、河原が火事になり、大騒ぎになった。市街に火の川の出現であり、火事が最も恐ろしい災害の時代である。

 私がこの文章を書くために松本の歴史を調べたら、明治時代に大規模な火災が三回も発生していたことが判った。最初は明治19年2月9日(1886)一千戸を消失する大火であった。

 次が明治21年1月4日(1888)、本町の極楽寺より出火千五百戸を焼く大災害で町の大半を焼き尽くす大火であった。松本が今よりも戸数がはるかに少ない時代であり、二つの大火は共に真冬であり、家族数の多いのが当たり前であるから、罹災者の数は想像を超え、困窮が短い間に二度も押し寄せたのだから市民の苦労はひどいものだった。

 三回目の火事は明治45年(1912)で、北深志で1464戸も焼けた。

 清市の火事事件は二回目の火事の後で、火事の恐ろしさが骨身に滲みていた市民の前で起こったのだ。

 昼間のことで、消防隊も町の人も一斉に消火に当たったが、幸いにも川には水が流れていたらしく、それに救われて延焼を防げたらしい。冬季薄川(すすきがわ)に水が絶えることが屡々あるが、女鳥羽川や田川は水が途切れたことがなかったから助けられた。さすがに清市はえらい事をしてしまったと思ったのであろう。自宅へは帰られず、伯母のところへ逃げ込んだと言う。この事は彼を悪ガキとしてより一層名を轟かせることになった。
ーーー引用終了ーーー

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