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2009年10月4日

1057 桑島治三郎先生の思い出

桑島治三郎先生の思い出
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東北大学医学部眼科同窓会誌空の依頼で桑島治三郎先生の思い出の記事を投稿致しました、そのゲラ刷りが参りましたのでご披露させていただきます。
この記念号は、今年の同窓会の後で送って下さるそうです。

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桑島治三郎先生の思い出

深志清流会清澤眼科医院 院長
東京医科歯科大学臨床教授

清澤源弘

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桑島治三郎先生の思い出をということですので、最後の弟子を自認するわたくしからも先生との思い出を紹介させていただきます。

私の伯父の小原博亨が名古屋鉄道病院で神経眼科に興味を持ちながら診療をしていた頃、仙台の地で神経眼科を研究されていたのが桑島治三郎先生でした。私の伯父はトラック島で、桑島先生はビルマで終戦を迎えています。私が仙台で神経眼科を専攻したいと身の程知らずに入局したとき、その叔父に紹介されたのが水野勝義教授と桑島治三郎先生でした。

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初めてお目にかかった当時、桑島治三郎先生は教育学部の視覚欠陥学教室の教授をなさっていて、川内のキャンパスにおいでになったのだと思います。その後、酒田市民病院の院長を経て、広南病院の院長に就任されました。

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私が、直接に桑島先生の薫陶を受けるようになったのは、神経眼科の症例を見たいということで大学院院生ながら広南病院の眼科を担当させていただいていたからです。当時の江南病院はJR長町駅のすぐ近くにあって、陸軍幼年学校の旧校舎という風格のある建物でした。脳外科の鈴木二郎教授に率いられた脳外科の野武士軍団と、板原教授以下の紳士軍団が水曜日の朝の症例検討会という名の合戦を開き、眼科の大学院生である私は桑島病院長の陰に隠れるような形で陪席したのです。

統合失調症のような精神症状を示したウイルソン病の症例で、眼科ではどうなのですか?という質問に私がカイザーフライシャーリングというものがあってとしどろもどろな答えをすると、桑島先生は私の発言の後を受けて的確に患者の全体を眺めた軌道修正をしてくださいました。サルペトリエル病院のシャルコーの木曜のカンファレンスというのが有名ですが、当時の江南病院の朝カンファレンスもそれなりのものでした。

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新生江南病院では桑島先生には眼科のその日の症例を数例見ていただき、コメントをいただきました。毎回先生は私を名誉院長室にお呼びくださって、職員食堂から取ってくださったお昼をいただきながら様々なお話を伺いました。ある日、この症例はどうも大学眼科の診断が違うようだから、もう一度大学に持ち帰って聞き直してみましょうと申し上げたら、“決してそのようなことをするな。(大学の上司の反感を買うだけで意味がない。)”とたしなめられてびっくりしました。

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私が教えを受けたころには、強引さとか主張の強さとかは全く感じさせない桑島先生でした。しかし先生が信念を持って多発性硬化症が日本にも存在すると発言したために被った迫害の話は有名です。(実録日本の多発性硬化症を参照)

721桑島先生に教えられたことで、忘れてはいけないことがもうひとつ。“患者さんが医師にとっては教授である”ということ。ドイツ語は忘れてしまいました。真摯に患者さんを拝見し、そこから次の患者さんの治療に役立つ真実を一つずつ身につけてゆくのがあるべき医師の姿勢ですという教えです。

“自分の教科書を作ると自分にとっても知識の整理になるのでとてもよいです”というのもこれに通じる教えです。桑島先生が眼科助教授当時にまとめた眼科教科書の高血圧眼底東北大学分類を見せながら教えて下さったことです。

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当時の私はまだ大学院生で、自分にそのような日が来るとは思ってもみませんでした。自分も55歳を過ぎ、大学を離れて開業するに至っても、いまだに実行できずにいる現状を鑑みると忸怩たるものがあります。皆さんにはもう私の研究活動は終わったと思われているのでしょうが、もうひと頑張り自分の教科書を桑島先生の仏前にお供えしたいものです。
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2009年03月01日
797 桑島治三郎 先生 ご逝去 (東北大名誉教授)⇒リンク

桑島治三郎先生に関連のある当ブログの記事は上野リンクでご覧ください。

”患者さんこそが私たち医師の最善のプロフェッサー(教師)である”というのが先生の口癖でした。

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