【10日・月曜】東京都平和の日=東京大空襲の日
今日が3月9日であすは3月10日。昭和20年3月10日未明に江東区を含む都内東部の広い区域が米軍のB29による空襲を受け、一夜のうちに10万人の人々が犠牲になりました。非戦の思いを新たに致しましょう。
引用すれば、”1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された(注;砂町は城東地区です)。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾など、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。8万~10万人が犠牲になり、焼失家屋は約27万8000戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方km)が焼失した。 ”
江東区に縁があるものとして忘れるべきではない日です。
昭和20年3月10日は国民祝祭日でもある陸軍記念日でも有ったので、米軍は敢えてこの日を大規模な爆撃に選んだとも言います。普段は帰宅できないのに、この日だけ帰宅して空襲にあった若い方々もいたと聞きます。
非戦闘員を攻撃する爆撃が国際法違反であったという議論も最近はなされます。東京は、江戸時代の数度の大火、関東大震災、そしてこの空襲と何回も火災を伴う大惨事に見舞われています。次の災害が今、ここ江東区に起きてもおかしくは無いとの自覚も必要でしょう。
土木専門学校の学生であった私の父も、この東京大空襲の晩は学徒動員の夜勤で錦糸町の工場に出ていました。
私が生まれたのはその8年後です。私は、親の世代にとって戦争がそれほどまでに身近な強い印象を持っているということには気付かぬままに育ちました。今、私の医院のある新砂地区は、当時はまだ海岸堤の外の海面で、最初の戦災にあった赤い地域からも外れています。ここから今は地続きになった内陸の僅かな部分には家屋は少なく、養魚池なども有ったようです。
その一角には当時からアシザワの重機械工場(⇒リンク)があり、その会社のホームページには”東京大空襲で工場・事務所・倉庫の大半を焼失、奇跡的に残った機械工場と変電設備で事業を継続した”と書いてあります。
この場所は今では日通の大規模な荷捌き倉庫になっていて、その一角には日本中にコンタクトレンズを送り出すジョンソンエンドジョンソン社の最新鋭の国内送配センターも入っています(⇒記事)。
しかし、被災地図を見ますと、江東区は全く焼き尽くされていて、当時の焼け野が原の写真を見ますと、清洲橋通りの道の曲がり具合や、旧葛西橋の位置から、この辺が今の東西線南砂町駅の辺りかと推測するばかりです。
今日も最後まで眼を通してくださりありがとうございます。
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