お問い合わせ

03-5677-3930初診受付

ブログ

2007年10月5日

416 瞳孔膜遺残 persistent pupillary membrane (PPM)

5瞳孔膜遺残のお子さんを持つお母さんから瞳孔膜遺残についての説明を求められました。
(瞳孔膜遺残症を探している方が居ますが、通常はこの疾患を瞳孔膜遺残症と症をつけては呼びません。)

瞳孔膜遺残の写真これがコロンビア大学のHPに掲示された瞳孔膜遺残の図です。これ以上に典型的な写真は他では見つかりませんでした。”瞳孔膜遺残は自由な浮遊端が付いて虹彩の縁に付着する線維状のものです。虹彩から出た厚い膜と水晶体の前面に付いた虹彩色素にもご注目ください。”とされています。

瞳孔膜遺残は通常の眼科診療で出会う最も多い先天的な変異です。レンズの前方にあって在胎中にはレンズに栄養を与えた血管性の膜の残りです。

瞳孔膜遺残の線画通常、症状は全く無く、まれに視力が低いことがあります。単一のあるいは数本の糸状のものが瞳孔を横切って橋を掛けた構造になっていて、端は常に瞳孔輪に付いて居ます。

瞳孔膜遺残の中心部分は前房水の中に浮かんでいるか、またはレンズ表面についています。メラニン産生細胞が点状の色素をレンズ前嚢の表面に形成しているのが見える事があります。 まれには厚い膜が、瞳孔を覆う場合があります。
通常は特別な治療は必要ありませんが、瞳孔が広範に覆われる場合にヤグレーザーで切る場合もあります。

2この瞳孔膜遺残は、ずっと固定したものではなくて、通常は生後1年以内にかなり萎縮します。しかし、正常な網膜の画像が形成されるためには、少なくとも1.5 mmの瞳孔の直径が必要です。そこで、必要であれば、散瞳薬の使用や、健康な側の眼を遮蔽する遮蔽治療を行う事があります。こうして瞳孔膜遺残患者の瞳孔形成術を回避できます。

3瞳孔膜の過形成遺残には手術治療が行われることがあります。しかし、混濁が視軸に存在し、実際に視力障害を来たすケースは比較的まれです。

弱視発生のリスクがあったり、虹彩の組織が水晶体に癒着して白内障を合併している症例では手術も行われます。

この場合には、生後一面未満でも瞳孔膜の切開、水晶体の吸引と後嚢の切開を行い、更に前部硝子体切除と後房レンズ挿入を行ったという例の報告もあります。その例では術後8週目に、視力が 0.25まで回復したと報告されています。

4ですから、前極白内障を伴う片眼で高度の瞳孔膜遺残では、早期の手術治療が勧められる場合もあるのでしょう。それは、以前はやや難しい手術だったのですが、粘弾性物質のヒーロンを使用すると水晶体前嚢からの遺残瞳孔膜の剥離は容易ですから、水晶体手術を同時に行うことが回避できるという説明もあります。

図解
この疾患を示す図を探していましたら、獣医関連のホームページにその様々な形を記載したものがありました。私が今までに見た諸症例の形とも合いますので図と説明を転載させてもらいましょう。

a.瞳孔膜遺残の空方の端が前房中に遊離していて、臨床的な意味が無いもの。
b.虹彩とレンズを結ぶ索状のもの、これは前嚢を混濁させ白内障を進行させます。
c. “Y” 型の索状物。これも臨床的な意味はない。
d. 虹彩から別の虹彩の部分を結ぶ索状物。これにも臨床的な意味はない。
e. 虹彩と角膜を結ぶもの。これは癒着性の角膜混濁を伴うことがあります。

項羽(館田行雄)http://park2.wakwak.com/~eohashi/tohoku3.htmさて、この話を調べていて、三国志の英雄である項羽が重瞳とされていたことを思い出しました。(高校の漢文の世界ですね。)彼のほかにも、三皇五帝の1人である舜や、日本でも豊臣秀吉や平将門が重瞳だったという伝説がある様です。項羽はこの瞳孔膜遺残を持っていたのではないでしょうか?

項羽と劉邦(本)項羽の話は次のようなものです。秦末の群雄割拠時代は、楚と漢の対決に絞られていきました。この両国の君主である項籍(字の羽のほうが有名)と劉邦は、その人物像についてよく比較されます。

この二人はまったく異なったタイプとされています。http://www.h3.dion.ne.jp/~china/point110.htmlによれば、項籍(項羽)の生年はB.C.232年。出身は楚の将軍の末裔ですが農民です。

7その姿と形は、目が重瞠子(2つ瞳)であり、身の丈8尺余り、力はよく鼎を持挙げることができ、才気が人にすぐれていたということです。 

紀元前202年、4年間に及んだ漢楚の戦いは、いよいよ終局を迎えようとしていました。楚の項羽は、四面楚歌という言葉の元になった垓下の城壁戦いでいよいよ追い詰められ、私の戦い方が悪かったのではない、天が私を滅ぼそうとしているのだという言葉を残して没しています。

8広辞苑によると、「周囲がみな敵で、孤立無縁なようす」とありますが、実は、これは漢の軍師・張良が、敵の戦意を挫くために、考え出した歌声作戦で、項羽と楚の兵はまんまとひっかかったのであるとも解説されています。

この話を更に詳しく知りたい方は”四面楚歌とは”とgoogleを繰ってみてください。

項羽の馬投げ今日も最後まで眼を通してくださりありがとうございます。
管理頁
清澤眼科医院通信最新ページへ(リンク)します

携帯SEO
今日:
昨日:
相互リンクページ

Categorised in: 未分類