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2021年2月21日

12682:16世紀、ヨーロッパの銀価格が大暴落した納得の理由;記事紹介

清澤のコメント:最近、銀価格の瞬間的な騰貴と翌日の暴落など銀を含む貴金属相場が乱高下しています。今や銀は金の60分の1程度でしょうか?そのような金銀の交換比率の話題がダイヤモンドオンラインに出ていました。金銀交換比が国内外で違ったために、幕末の日本から大量の金が流出したという話を聞きましたが、この記事によると、マニラ・ガレオン貿易(1565年から1815年まで)でメキシコ銀が東南アジアに流入したのは、江戸時代全体より50年ほど前だったようです。関連部分を採録して見ます。

  ーーー抄出ーーー

左巻健男ライフ・社会世界史は化学でできている2021.2.20 4:20

「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける、白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』が発刊された。

古代では銀は金よりも高価だった

 銀は古くから知られた金属だ。銀色のきれいな光沢を持つ金属で、金属のなかでもっともよく電気と熱を伝える。また、金に次ぐ展性(圧縮により伸びる性質)・延性(引っ張りにより伸びる性質)を示し、一グラムの銀は一八〇〇メートル以上の銀線に伸ばすことができる。

 銀は自然銀でも産出したが、自然金よりは少ない。鉱石から取り出す必要があったがその方法は未発達であったため、金より希少性があった。

 古代の銀は、おもに方鉛鉱という鉛をふくむ鉱石から取り出した。紀元前三〇〇〇年ごろのエジプト、メソポタミアなどの遺跡からも鉛と一緒に発見されているが、金に比べて銀製品ははるかに少ない。バビロニア帝国の時代になると、銀製の壺などが出てくる。この頃は、銀のほうが金よりも高貴であるとされた。

 紀元前三六〇〇年頃のエジプトの法律によれば、金と銀との価値の比は一対二・五だったという。銀のほうが金よりも高価なので、わざわざ金に銀めっきを施した装飾品も存在していた。

 その後、鉱石から銀を取り出す技術の向上に伴い、銀鉱石からの生産が増加。結果、銀の価値は金に比べ低いものとなった。

巨大なポトシ銀山の発見

 新大陸・ヨーロッパ・アジアの経済を一つに結び付けたのが、新大陸からの安価な銀だった。一五四五年、アンデスの高原で発見されたポトシ銀山は新大陸最大の銀山になった。

 当初、七五人のスペイン人と三〇〇〇人のインディオが鉱石を掘り出したが、その後、鉱山労働者は急増し、一六〇四年にはインディオのみで六万人に達した。十六世紀末にはポトシ市の人口は一六万に及び、メキシコ市をしのぐ新世界最大の都市となった。ーー

新大陸の銀とヨーロッパ経済の急成長

 時は十六世紀半ば、当時イタリアと争っていたスペインは、戦争と豪奢な宮廷生活により、王室財政は破壊的状況に陥っていた。その膨れあがる財政支出を支えたのがポトシ銀山であった。

 一五四六年以降に相次いでメキシコの銀山が発見された。諸説あるが、一五〇三年から一六六〇年までに約一万五〇〇〇トンにものぼる桁違いの銀が、新大陸からスペインに流れ込んだ。それまでの六~七倍の銀が流れ込んだため、ヨーロッパの銀価は下落し、十六世紀から十七世紀前半にかけて、物価は三~四倍に高騰した。いわゆる「価格革命」が起こり、これまで経験したことがない大インフレに見舞われた。スペインの賃金はヨーロッパでもっとも高くなり、毛織物などの製品は国際市場での競争力を失ってしまった。

 価格革命は、商工業の発展を大いに刺激するとともに、金額の固定した地代収入に依存していた封建貴族層の経済力を相対的に低減させ、農民の地位の向上(農奴解放)をもたらすなどヨーロッパの政治・経済に大きな影響を与えた。

 スペインへ運ばれる銀は十六世紀後半から増え続け、十六世紀末にはピークに達した。十六世紀後半にスペインがアカプルコ(メキシコ)とマニラ(フィリピン)のあいだを大型帆船ガレオンで毎年結ぶ「マニラ・ガレオン貿易」が開始すると、新大陸の安価な銀の三分の一は東アジアに持ち込まれた。中国の絹・陶磁器などがスペインの安価な銀と交換された。それらの商品は太平洋を横断し、さらにはカリブ海経由で大西洋を渡りヨーロッパにもたらされた。マニラ・ガレオン貿易は、一五六五年から一八一五年まで、二百五十年間も続いた。(以下略)

Categorised in: 社会・経済