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2020年9月19日

12275:大東亜会議と重光葵:

日本が大東亜戦争を戦った意義を今の日本人が知ることは必要である。

;大東亜会議と重光葵の意義を述べている。


重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 – 1957年(昭和32年)1月26日)

1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる。日本は東南アジアのイギリスやオランダ、アメリカなどの欧米の植民地を次々と占領。外交官として重光はこれに対し「日本はいやしくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。

戦時中の外相

東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対した。しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。

敗戦国の全権

降伏文書調印


1945年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて。中央で署名するのが重光。重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え[3]、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。

Categorised in: 社会・経済