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2020年4月1日

11711:残る影 (自叙) 小柳美三 を拝読しました(後半編)

清澤のコメント:新潟の安藤先生に後半編の記載を請求されたのは、もう何年も前となってしまいました。今回同窓会の記念誌をいただいたのを機会として後半部分の要点をまとめ直します。「 奇しき運命が抱擁の手を大きく広げて待ち構えている。もしそれが幸運と気づいたならば、気を逸する事なく、どこまでもしっかりと把握して取り逃がさないようにすることが肝腎である。それから先の成否の鍵は固より各自の実力と発奮如何に繋がっている。これが自然科学の研究に精進腺とする後進に与うる私の心からなる言葉である。 」これが、小柳先生の結論です。

残る影 (自叙) 小柳美三 を再度拝読しました(後半編)

第3:蛋白尿性網膜炎の発生病理に関する研究。生命予後も眼底観察でわかる。発生原因とタンパク尿との関係も不詳。毒素のためと解していた。フォルハルト氏は栄養障害説を建てた。小柳は6例の病理から、攣縮による栄養障害ではなく、毒素説に立った。これがドイツの雑誌で反復議論された。①網膜中心動脈と短後毛様動脈の内皮細胞の偏心性増殖。毛様血管に硝子様変性あり。②抹消血液中に幼弱赤血球が多いこれが溶血現象を思わせる。網膜色素上皮細胞の病的分泌ないし変性。それは尿細管上皮の中毒性ネフローゼに通ずる。④ 妊娠網膜症は妊娠中毒である 。慶応菅沼氏の報告にはこの記載がない。さらに新たな事実の記載が必要である。真理の探究を本来の使命とする吾人自然科学者の立場からすれば、良心的研究の成果はたとい子弟の間柄であっても之を歪曲することは許されない。引き続き名古屋大学小口忠太氏の学位論文に対する「臨床家としての頭脳さえ少し働けば、何も独逸あたりまで出かけて行って指導を仰がずとも事は済んだ」という批判。

国際眼科学会の宿題報告 (本書後半部分の重要部分はここから:清沢注)

1937年12月埃及(エジプト)カイロの第15回国際眼科学会における宿題担当が文化日本を世界に示した。欧米人の指導や考案によらず、まったく独自の立場において研究せる業績を堤げ、初心を発表したのは本懐と述べる。

1935年4月8日招待状第1信:目と高血圧を宿題のテーマに決定した。小柳(仙台:病理解剖的方面)、バイヤール(パリ:臨床方面)、デューク・エルダ(ロンドン:生理学的方面)を縁者に選んだ:理事マルクス(注:歴史的にこの時代のドイツ語圏の眼科医マルクスは編むスラーチャートで知られたアムスラー教授です)

1935年6月12日第2信:宿題は「全身欠陥に於ける血圧亢進に伴う網膜の変化」:50-60ページの単行書で図入りの本の発行を予定する。ドイツ語で構わない。マルクス

1935年8月9日第3信:ロチェスター市のメイヨークリニックのキースとワグナー両氏を加える。

小柳の顕微鏡写真はエジプトの印刷が荒いために日本で印刷して300枚を送った。完成品では埃及製と日本製の図が混在している。

1937年12月8日に開催。小柳氏のみ自国語ではない独逸語であいさつをした。フォンシリー氏は小柳がドイツ語であいさつしたことを喜んでくれた。しかしそのフォンシリー氏はユダヤ人の血が混じっているということで、エジプト学会の終了後いくばくもなくドイツから追放されたと聞き、小柳は強く同情している。

講演はキース、バイヤール、小柳の順に40分ずつ行われた。論敵のフォルハルト氏は欠席し、共著者で、純ナチス系のチール氏が論文を持参した。ザルマン氏は愉快なオーストリア人で、1945年総会がウィーンでリンドネル教授の下で予定されそれを楽しみにしていたが、戦争で流れた。小柳は後輩が国際学会で発表することを強く希望している。

欧文による業績の発表

小柳が浅山教授に師事した明治42年には、多数の学者は外国とりわけドイツに対する心酔が激しかった。小柳も独逸文で書くと、その価値が一段と高まると錯覚し卑屈な気持ちを持っていたと述べている。大学の教授にでも推薦されようとする程の人は、まずもって先進国殊に独逸あたりに2~3年間留学しないと、其の詮衡から無資格として除外されたほどであった。ーー開業に志す一般医科でさえも一度洋行してこないと肩身が狭く、患者の信頼も薄いというのが一般的国内情勢であった。--こうやって大正10年頃まではわが国上下を通じて外国崇拝熱は実に想像以上に高まっており、その間独り科学者のみがその例に洩れよう筈もなかったのである。---。是が非でも論文は欧文で書いて、発表と同時に直ぐに彼らの眼に触れるように成るべく外国の専門雑誌を利用するのが得策だと考えた。---

学に国はあっても学問に国境はないと言い古されているように、人類全般の福祉増進を究極の目的とする科学者は、いつも国際場裏に活躍して論争を続け持って一路真理の探究に邁進しているのである。

―――如何に敗戦国なりとはいえ、事あたかも科学に関する限り最早屈辱追従の時代ではなく、対抗論争の時代である。この意味において、私は科学者の業績は原則として欧文に認め、外国の雑誌に発表するのが国威の発揚にも必要であると確信するものである。

『科学者にも運と不運がある』

―――われわれの周囲には人間の力だけでは到底払いのけることのできない何者かが絶えず働きかけていることも亦見逃すわけにはゆくまいと思ふ。--家庭的殊に経済的には私は必ずしも幸運をつかみ得たとは思わない、--けれども今学究として踏んできた道筋を遠い過去の昔から近く現在の脚下に至るまでを今振り返って顧望するとき、その全過程を通じて絶えず幸運に恵まれ、添付の才能以上に仕事を成し遂げたものだと心窃に喜んでいる。--

ーーもしそれが幸運と気づいたならば、気を逸する事なく、どこまでもしっかりと把握して取り逃がさないようにすることが肝腎である。それから先の成否の鍵は固より各自の実力と発奮如何に繋がっている。これが自然科学の研究に精進腺とする後進に与うる私の心からなる言葉である。 (83ページ完)

残る影(自叙) 小柳美三

発行 平成29年3月11日。

発行責任者 今井克彦 笹気出版印刷株式会社 

(非売品)

Categorised in: 社会・経済