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2020年3月30日

11695:自粛ムードまとう「同調圧力」の危険性:記事紹介

202003300803 医院前の桜

清澤のコメント;現在の世界の患者数716000人、日本は1800人ほど、ともに増加は衰えを見せない。.私には院長室への巣ごもりで過ごした週末は、家族の時間に縛られることもなく快適であった、しかしこの論説が言うように「誰もが政府の要請から派生した「自粛ムード」を基準に他人の行動を評価し始めている。政府が国民に不要不急の外出を控えることを求めると同時に、『人が集まる風通しが悪い場所を避けること』を呼びかけたことがきっかけになっているが、自粛ムードを金科玉条のごとく内面化した人々による「不謹慎狩り」の様相を呈してきている」というのも確かに感じられるこの頃である。 「不謹慎狩り」 をする人々が 「自分は正しい」と 信じているところが、誠に御し難いところである。

ーーー記事抄出ーーー

新型コロナウイルスがあぶり出す日本の危機 自粛ムードまとう「同調圧力」の危険性:記事紹介 2020年3月27日(金)17時00分 

真鍋 厚(評論家、著述家) *東洋経済オンラインからの転載 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92895_1.php

――短縮して採録―――

新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない。社会全体が「コロナ不安症」とでも評すべき症状に覆われているかのようだ。デマや流言の氾濫、買い占めや窃盗の勃発、外国人や医療従事者、感染者への差別などはもはや珍しい現象ではなくなった。

今や「安心」と引き換えに「自由」を犠牲にする政策が日本を含む世界各国で積極的に採用されている。大規模な集会の禁止や公的施設の閉鎖、移動制限、学校の休校がそれだ。世界保健機関(WHO)が実施を強く求めている「社会距離戦略」(人と人の接触を極力減らすこと)はまさにその象徴といえる。だが、この「安心」と「自由」のジレンマこそが新たな問題の温床になりつつある。

日本では、それが休校により屋外で遊ぶ子どもたちに対するクレームという「いびつな形」で噴出した。3月12日の毎日新聞は、児童らが公園などで遊ぶのは「休校の趣旨に反するのでは」という住民の声が各地の学校や教育委員会に寄せられていると報じた。千葉県松戸市の教育委員会には「子どもが昼間から公園に集まってうるさい」との苦情もあったという。

「社会の目が、相当厳しくなっている」

3月17日の北海道新聞でも、教諭の「社会の目が相当、厳しくなっているのを感じる」とのコメントを紹介した。

恐らく誰もが多かれ少なかれ政府の要請から派生した「自粛ムード」というあいまいなものを基準に他人の行動を評価し始めているのではないだろうか。

政府が国民に不要不急の外出を控えることを求めると同時に、「人が集まる風通しが悪い場所を避けること」を呼びかけたことがきっかけになっているが、自粛ムードを金科玉条のごとく内面化した人々による「不謹慎狩り」の様相を呈してきている。

自粛ムードで気晴らしの機会を奪われた(我慢を強いられていると感じる)人々が、他者の挙動を逐一監視し、摘発や抗議、果ては公的機関に通報して「溜飲を下げる」構図は最もわかりやすいだろう。しかも、これらの言動は感染症特有の健康不安が後押ししている面がある。重症化する可能性が高い高齢者などであればなおさらかもしれない。

だが、その肝心の中身はといえば、深く考えずに多数派の意見を押し付ける「同調圧力」のようなものでしかない。先の教諭が語った「社会の目」とは「世間の目」のことである。

クレームをする側は必ずと言っていいほど、自分が「世間の代弁者」であるように振る舞う。そうなると、その人物の主観から見て「不快」なものはすべて「感染拡大を助長する行為」になりうる。つまり、自粛ムードが独り歩きすることによって、究極的には、さまざまな工夫によって政府や自治体が課す条件をクリアして、楽しい一時を過ごしている人々にですら「逸脱」のレッテルが貼られる可能性がある。

「ウイルス」ではなく「人に」いら立つ排除型社会

こういった世間の目を気にする状況に置かれたり、無言のプレッシャーを感じたりする局面がある人は少なくないと思われる。今後さらなる感染拡大へと突き進むことになれば、自粛ムードをまとった「同調圧力」はより激しいものになることが想像できる。つまり、わたしたちは心の余裕がなくなればなくなるほど、「ウイルスに」ではなく「人に」いら立つようになるのだ。

このような物騒な事態が出来している主な理由は、わたしたちの社会がパンデミックという自然災害(生物災害に分類される)にあまりに無防備だったということが挙げられるが、そもそも長期間にわたって「人間の都合」よりも「自然の都合」に従わなければならない状況に馴れていないことも大きい。皮肉な話ではあるが、わたしたちの社会を成り立たせている根幹の機能がリスクにさらされているのだ。

わたしたちは自分のことを自分で決められること、自分の人生をコントロールできていてアイデンティティーの感覚が得られることに意義を見いだす。そのような価値観が尊厳のベースにもなっているからだ。

しかし、わたしたち一人ひとりの「自律性と個性」というものは、現代社会を支えているインフラとそれに基づく生活や慣習が何の問題もなく維持されていることに依存している。買いたいときに買いたい物が買える、会いたいときに会いたい人に会えるといった「人間の都合」が実現されている環境下で初めて得られる脆弱なものにすぎない。

今回のパンデミックは地震や台風などの物理的な脅威と異なり、必要な行動・コミュニケーションを困難にする心理的な脅威として強く現れる。自粛ムードはその副産物の1つだ。「未知のウイルス」であり、まだ特性に不確かな部分も多いことから、どこまで気をつけるべきかの見極めに悩むこととなる。とりわけ無症状感染者や風邪と見分けがつかない軽症者がいることが事態を複雑にしている。

「安心」と「自由」、ギリギリですり合わせ

社会距離戦略の「社会距離」は、文化人類学者であるエドワード・T・ホールが提唱した対人距離に関する概念に由来する。

ホールは、距離帯を密接距離(相手との距離が0~45cm)、個体距離(相手との距離が45~120cm)、社会距離(相手との距離が120~350cm)、公共距離(相手との距離が350cm以上)の4つに区分した。社会距離は、知らない者同士や、ビジネスシーンでの会話で多用されるという。

日本では相変わらず満員電車が容認されているが、欧米では、この社会距離を取るということが目下急務というわけだ。例えば、アメリカ・カリフォルニア州の一部で3月17日から発効された「屋内退避指示」では、市民は6フィート(約183cm)の社会距離を維持することが求められている。

これは「人間の都合」を「自然の都合」にできるだけ合わせようと試みる、「安心」と「自由」のジレンマをぎりぎりのところで解消しようとする苦肉の策だ。普段わたしたちは自分たちが動物であることをあまり意識しないが、ウイルスに感染してしまうのは当然わたしたちが動物であり、望むと望まざるとにかかわらず「自然の都合」の中で生きているからだ。

しかもわたしたちは社会的動物であるのでコミュニケーションが必須であり、デジタルデバイスが不足の大半を補うとはいえゼロにすることは困難である。だが、わずかな接触の機会が新たな感染者を生んでしまう。

現在、「巣ごもり」によるメンタルヘルスへの影響が世界各国で懸念されているが、「自律性と個性」の危機が作り出す不満と嫉妬のスパイラルにも注意が必要だ。

だからこそ軽はずみな対処法は避けなければならない。「犯人」を見つけてたたき出したりすることである。

公衆衛生学者のハンス・ロスリングらは、そのような人間の傾向を「犯人探し本能」と命名した。誰かを責めれば物事は解決すると思い込むことであり、ほかの原因に目が向かなくなってしまうために、将来同じ間違いを防げなくなってしまうと警告を発した。

「安全」を大義名分に個人の監視も

新型コロナウイルスの起源をめぐる米中の争いが典型といえよう。マクロレベルでは「自然の都合」が世界経済を大きく揺るがし、超大国同士を子どもじみたケンカに向かわせる。ミクロレベルでは、市民の間で「誰がルールを破ったか」「誰がウイルスをばらまいたか」といった犯人探しに傾倒する。

すでにいくつかのメディアが報道しているが、イスラエルは感染者の行動を追跡することを可能にするため、防諜機関であるイスラエル公安庁がスマートフォンの通信データを傍受できるようにした。

「安心」のために「プライバシー」(個人の秘密)を犠牲にする方向性だが、現在のような疑心暗鬼と恐怖感で張り詰めた空気が継続すれば、新たな法規制に対するわたしたちの抵抗感はかなり低くなるかもしれない。

これは、自発的な「分割統治」(被支配者同士の対立をあおり立てて、支配者への批判をかわす統治手法)のようなもので、国の防疫体制などの方針に対する批判や国民的な議論をも吹き飛ばしかねない。最悪の場合、危機に乗じて国は「国民の安全」を大義名分に個人の監視を合法化してしまう可能性もあるだろう。

新型コロナウイルスのパンデミックに伴う「安心」と「自由」をめぐるジレンマは、多様な局面においてわたしたちの人間性を試す厳しい試練になろうとしている。

※当記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事を短縮しています。

Categorised in: 社会・経済