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2019年3月10日

10527:東京大空襲と東日本大震災を思い出そう

清澤のコメント:今日3月10日は1945年に東京大空襲の有った日です。東京大空襲での人的被害の実数は、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれます。単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大です。両親を失った戦災孤児が大量に発生しました。「硝子のウサギ」等、当時の被災した子供の悲惨な状況も本になっています。現在、清澤眼科医院が有る場所は当時、まだ海の中でした。然し、東京大空襲・戦災資料センターで見た地図では現在の東西線で隣駅である東陽町駅前の公園には数千人が仮埋葬されたことがしめされていました。

3月11日地震後の夕刻、江戸川方面(左方向)に徒歩で帰宅した人々

また明日(3月11日)は、8年前に東日本大震災があった日です。東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。2018年震災による死者・行方不明者は1万8,432人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万2,704戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時において避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上[45]、断水世帯は180万戸以上[46] 等の数値が報告されています。

―――ネット新聞記事――

東京新聞朝刊には、<孤児たちの闘い 東京大空襲74年>(上)飢え 物乞い 地下道生活 ずっと語れなかった 鈴木賀子(よりこ)さん(81)の記事が出ています。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201903/CK2019031002000135.html

2019年3月10日 朝刊

 半月か一カ月か。どれくらいそこにいたのか、はっきりは覚えていない。終戦から間もない一九四五年の秋、戦争孤児らであふれる上野駅の地下道に埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)はいた。東京大空襲で孤児となり、焼け焦げた布団で寝て、食べ物を盗み、飢えをしのいだ。生きるために。

 鈴木さんは、記者と訪れた上野駅の地下道から、目を背けるように語った。「今も上野駅には来たくない。つらい過去を思い出してしまうから」。ここでの体験を、ずっと語れなかった。

 七歳だった。四五年三月十日、四つの弟と十四歳の二番目の姉とともに、東京都城東区(現江東区)の自宅近くの防空壕(ごう)に避難した。「大事な物があるから取りに行ってくるね」。そう言って、母と一番上の姉は防空壕を出ていった。(中略)

 青函連絡船を下り、大人の後を追って駅の改札を擦り抜け、無賃乗車を繰り返した。おなかをすかせた弟はよく泣いた。「めぐんでください。食べ物を」。降りるたびに物乞いを続けた。「いつも、犬のように追い払われました。空襲後、一番つらい思い出です」

 小樽を出て何日後だったか。たどり着いた高円寺で再会した姉は号泣した。だが、転がり込んだ姉の寮で盗難が相次ぐと、弟と二人に疑いの目が向けられた。「もう行く所がなくなっちゃったね」と姉が言う。高円寺を後にし、向かった先が上野駅の地下道だった。

      ◇

 一夜で約十万人が犠牲になった一九四五年三月の東京大空襲では、多くの子どもたちが家族を失った。戦争孤児となった人や保護施設の関係者に焦点を当て、大空襲の裏面史を描く。

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Categorised in: 社会・経済