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2019年2月11日

10462:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムとは

清澤のコメント:今日は建国記念の日。「フランクリン・ルーズベルトはイギリスと組んで対日戦争をはじめたくて仕方がなかった」と近年特に伝えられるところです。ハルノートを突き付けられては、日本は開戦を決意せざるを得なかったと続きます。その言説に私は反対しません。最近のトランプ大統領の中国に対する政策には共通の姿勢が感じられます。今日、私は「あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機」を本日視聴しました。

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War Guilt Information Program:WGIPは、文芸評論家江藤淳がその存在を主張したもの。太平洋戦争終結後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」である。

1、名称

江藤は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)という名称がGHQの内部文書に基づくものであると論じた。”War Guilt”は、一般的には「戦争責任」を指す。

江藤は、1948年(昭和23年)2月6日付で民間情報教育局からG-2(参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられたGHQの内部文書はあるとしている。

2、内容

「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の冒頭には、「民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。」とある。

江藤は、「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析した。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している。 また、「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになる」としている。

“WGIP”を主に担当したのはGHQの民間情報教育局 (CIE) で、“WGIP”の内容はすべてCIEの機能に含まれている。

WGIP”は「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、検閲などのような「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例としてはプレスコードが代表的である。

1946年(昭和21年)11月末にすでに「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として「SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判」など30項目に及ぶ検閲指針がまとめられていた。

経緯:同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戦争史」を連載させた。その前書は次の文言で始まる。「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙にいとまがないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されてをらず、時のたつに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことにならう。」

平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して「真相はかうだ」の放送を開始した。番組はその後、「真相箱」等へ名称や体裁を変えつつ続行された。1948年(昭和23年)以降番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。

1945年(昭和20年)12月15日、GHQは神道指令を発すると共に、以後検閲によって「大東亜戦争」という文言を強制的に全て「太平洋戦争」へと書換えさせ言論を統制した。当時、米軍検閲官が開封した私信(江藤は「戦地にいる肉親への郵便」かという)は次のような文言で埋めつくされていた。

「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付)

「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)

江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。/「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と主張した。

GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」

こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった。また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも江藤は主張した。

東京裁判で東條英機による陳述があったその2か月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。

一部日本人の中には、確信を持つて主張した東條の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まっていた。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがあった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Categorised in: 社会・経済