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2018年6月17日

9947:皮膚科とサッカーから見た東北大学と日本大学;照井正先生のお話です

皮膚科とサッカーから見た東北大学と日本大学
日大皮膚科 照井正 教授
(関東艮陵同窓会講演聴講印象記です)

東北大学サッカー部の部長は①村上次男、②高橋健吉、③星野先生、④坂本澄彦、⑤松野正紀、⑥土屋先生 ⑦斉木先生へと続いている。演者の照井先生は56年卒。東医体で3回優勝したらサッカーグラウンドを作ってやるという約束で有ったが、その約束は果たされなかった。

照井先生は皮膚科の医師としてよりもサッカー部のリーダーとして知られ、彼が日大に皮膚科教授として赴任してから、日大のサッカー部も東医体で優勝するくらいに強くなった。何よりも走り込みで体力をつけることが重要である。 

東北大の皮膚科では①遠山郁三、②太田正雄、③伊藤實、④高橋吉定、⑤清寺真教授が居た。清寺教授はメラノソームの発見で知られるが、50歳代で逝去されている。⑥田上八朗、⑦相場節也(現教授)。その同窓会を丁未会と呼ぶ。

本日のお話では太田正雄(木下杢太郎)につき詳しく話された。

2代教授太田正雄について:ペンネームが木下杢太郎(きのした もくたろう、明治18年― 昭和20年年。)は、詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家、皮膚科の医学者で大学医学部の教授を歴任し、また、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的など言われるきらびやかな詩や戯曲を残した。伊東市の生家が記念館になっている。

明治40年、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌、『明星』の同人となった。夏に、鉄幹・北原白秋・吉井勇・平野万里と九州北部の南蛮遺跡を探訪し、新聞に連載された紀行文『五足の靴』で、南蛮情緒の濃い、切支丹趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。

明治44年、東京帝国大学医科大学を卒業し、鴎外の勧めに従い皮膚科の土肥慶蔵教授についた。その頃から癩病研究を志した。

大正5年から大正9年まで、奉天の病院皮膚科部長。その時期に中国・朝鮮の美術を探訪し雲崗石窟のスケッチも有る。

大正10年から大正13年まで米欧に留学し、主にフランスのソルボンヌ・サン・ルイ病院とリヨン大学で研究した。かたわら、語学を学び、各国に旅行して南蛮・切支丹の文献を集めた。

大正13年、帰国して、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授となり、大正15年、東北帝国大学医学部教授に転じて、皮膚病黴毒学講座を担当した。

無題昭和13年、『眼上顎部青色母斑』を独立疾患として発表した。現在『太田母斑』と呼ばれる。昭和18年、『百花譜』と自ら呼んだ植物写生を始め、872枚を描いた。昭和55年没。

清澤のコメント:先日自叙伝を紹介した眼科の小柳美三教授と同時代に東北帝国大学の教授を務めた方という事になります。太田正雄教授の記念碑が医学部構内に有ったのを今も覚えています。


Categorised in: 社会・経済