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2016年5月29日

7797:戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて 「第1回 “高度成長” 何が奇跡だったのか」を見なおしました。

この2週の間に、この2回の高度成長の番組シリーズを視聴しました。

NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて 「第1回 “高度成長” 何が奇跡だったのか」ゲスト : 石丸典生 、五木寛之 2015年放送 (C)NHK

ーー眼科医清澤の番組聞き書きメモですーー

要点:
日本は、第二次世界大戦の敗戦からわずか20年余りで世界2位の経済大国に上り詰めた。世界史上、類を見ないスピードで復興し高度成長を成し遂げたその復活劇それが「日本の奇跡」。その成長は戦争中から養成されていた優れた技術者に支えられていた。政府官僚は重工業振興に目的を決め、政策でそれを助けた。下村理論はその後10年の高度成長を予言し、実際に所得倍増(年率10%もの成長)は池田隼人首相の下で進められ、それが1964年の東京オリンピックまで続いた。

1960年台の所得倍増、日本の軌跡とは?
「明日は今日よりも豊かになれる」という思想を打ち立てた理論:下村治の話。
千載一遇の幸運とは:幸運をどう実力に変えたか?
日本はそもそも軽工業しか持っては居なかった。
そこに重工業を促進する施策が行われた。

日本は、1955年から20年間は10%の成長(高度成長)をなし遂げた。

◎戦後の10年:

終戦直後の日本は?:下村の発見:日本に消費欲と生産力を発見した。経済成長で解消できる問題、つまり戦争回避がある。

 マッカーサーは日本の民主化のため大企業の解体を進めた。その結果、生産が4割まで減った。しかしウォール街出身の陸軍次官ドレイパーは日本に対するもともとの5億ドル(当時で80億ドル)の投資を回収したいと思い、マッカーサーに占領政策の転換を求めた。そのころは朝鮮戦争もあり、マッカーサーも日本への懲罰から復興政策へと方向を変えた。しかし、朝鮮戦争の特需による好景気は短かった。

 そこで、国の成長を支える政策とは?という官僚間の議論が起こった:選択肢は
1)繊維など好調な軽工業の強化?、
2)その時には不調であった重工業の振興?(自動車や家電)  
困難ではあったが付加価値の高い重工業しかないとの結論が出た。

 その時、日本には戦争の遺産ともいうべき大量の技術者がいた。彼らは、東京帝国大学第二工学部などで実践的知識を学んでいだ。黒田精工会長の例。特殊金型ほかを生産した。「技術は兵器にも医学にも使える。」

 自動車産業の育成:裾野が広く成功すれば莫大な雇用を稼げる。外国の非難にもかかわらず日本は自動車に輸入関税40%という徹底的保護貿易を敷いた。法律を変え、部品メーカーにも低い金利で設備投資を支援した。

 多くの人々は、好況が20年も続くとは考えていなかった。

 戦後日本の復興は戦後によりゼロにリセットされての出発ではなく、戦前戦中の遺産が花開いたと思うべきであろう。

◎高度成長の後期 (1960年台)
 日本人の多くはやがて大きなリセッションが来ることを覚悟していた。下村理論論文の確立。;成長率10%が10年続くと予測し、それが的中した。

 1956年経済白書「もはや戦後ではない」というのは、もうこんな成長は期待できないという意味だった。金森久雄はむしろ下村理論に懐疑的だった。 下村はケインズ理論の発展として、民間企業の設備投資が大切と判断していた。そして、「産業界に生産意欲はあるから、設備投資を政策で助ければよい。」と主張した。

 1958年、政治家池田隼人と下村との出会い。総理の座を目指していた池田は日本に高い成長力があるという高度成長論に飛びつき、池田は所得倍増論を打ち立てた。政策は1000億の減税と貸出金利の低減で企業の設備投資を促した。その結果、わずか一年で設備投資は30%も増えた。
 
 最大の幸運は人口ボーナスであった。働く世代が多い人口構成は途上国が先進国に移るときに一度だけ出会える。それが巨大な国内市場を与える。企業はたゆまぬコストダウンを行い、労働者はみな給料が増えた。テレビ、自動車が普及した。

 1964年東京オリンピック。池田は癌に倒れたが、3年後にはGNP52兆円を実現し、世界2位になれれた。 1960年からの10年で乗用車生産は19倍、その輸出は100倍になった。今のグローバル経済にはない、「労働者に多く払って消費を促進する」という健全なモラルがあったのだろう。これに対し、今の日本は70歳になったことを理解すべきかもしれない。

 しかし、当時社会には矛盾が噴出し、くたばれGNPという声も出た。経済成長に引導を渡したのは1973年の石油ショックだった。下村も、高度経済成長の終焉を唱えた。 しかし、その予言は外れ、成長軌道に戻った。それはマネーの流入であり、マネーが日本の右肩上がりを支えることになった。

次回はバブル経済の話と失われた20年の話に続く。

清澤のコメント:
 この番組を見て、自分の経験を日本の戦後史に対応させて考えることができた。
 大正15年生まれの父は、戦争中に大学専門部で学んだ土木技師であったが、この番組でいう戦後日本に残された人材としての技術者の一人では有ったのだろう。
 私が生まれたのは1953(昭和53)年。この番組によれば、朝鮮戦争特需が終わった頃に相当する。その頃にはベビーブームも去って、同年代の子供は既に少なくなっていた。生徒数の減少で、小学校の学級数が減り、教室が余って社会科資料室などという要らない部屋を埋める為の部屋も出来ていた。
 学校の校舎には戦時中の迷彩がまだ残っていたし、理科の実験室には戦争中の軍事研究所からのお下がりと聞く先細の「神風ビーカー」がまだ残っていた。小学校の担任の先生の後頭部には大陸で負ったという銃創の後が有ったし、隣のクラスの先生は不時着した特攻の生き残りで終戦の日にはアルミの食器で涙を流しながら食事をするという事であった。彼らが戦争を経験してから、まだ15年もたってはいなかったのだ。
 私に物心が着いた昭和30年代(1955年~)には、我が家の商店にもオート三輪が導入され、「鶏卵販売」と工業製品を詰めて輸出する「輸出箱」の生産の両者が行われていた。今から思うと、5人ほどいた従業員は老人と中高年の婦人であった。うちのような個人零細企業に来る人材は限られていたという事である。定時制高校に通っていたお兄さんも、卒業とともに東京に就職していったように記憶している。
 それでもあの時代、我が家も社会全体の成長の恩恵を少しは受けていたのだろう。父は私を連れて東京晴海で行われていた東京モーターショーや国際見本市に出掛けていった。西ドイツのホルツアレ社製の連続くぎ打ち機を導入できたのもその頃だった。田舎町の片隅にある町工場ではあったが、今から思うと戦時中に専門学校で学んだ父の工学知識はそれなりに生かされていたのだと思う。
 東京オリンピックの時、私は小学校4年(10歳)。その時までにオート三輪は1トン積4輪トラックのトヨエースに変わり、その数年後にはバンの形ではあったが、乗用車の形をした日産ブルーバードが加わった。その数年後、私が大学に入り松本の町を離れるまでにはトラックも2トンのハイエースに変わって居た。
 

 

Categorised in: 社会・経済