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2021年3月3日

12696:今日は楽しいひな祭りです

清澤のコメント:故郷の松本では月遅れでひな人形を飾っていましたが、実家ではもうしばらくはひな人形を飾ってはいません。大正時代に安曇野のF家という豪農が破産した時に買って来たものだ。「受け印(保証人)は決して押してはいけない」と父に聞かされたものでした。この地方では古くから押絵びなというものも作られていて、善光寺平(長野市周辺)に向けて犀川の舟運で運ばれていたそうです。市内の高砂町は歴史のある通りです。今の時代に経営が成り立つのかと心配してしまいますが、美しいひな人形を展示したひな人形店が並んでいます。

ひな祭りの歴史(ウィキペディアから抜粋)

「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然とせず、その起源説は複数ある。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためである。一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。当時の乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくはなかった。親としては必死の思いでこの成長を見守り、枕元には形代を置き、厄除けとした。そして、1年の災いを、春のひな流しで祓う。これが、ひな祭りの起源である。

江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」が結びつき、全国に広まり、雛人形が飾られるようになった。3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、安土桃山時代の天正年間以降のことだと推測されている。

江戸時代に入り、製作技術の発展によってさまざまな人形が作られるようになった。すると女の子の間では人形遊びが大流行するようになった。この影響もあり、雛人形は豪華で立派になっていった。お金もかかっているので河に流すわけにもいがず、この頃から雛人形の鑑賞を楽しむスタイルに変化した。しかしかつての名残か、「ひな人形はひな祭りが終わったらすぐに片付けないとならない」というしきたりは今でも存在する。娘の災厄を受け止めた雛人形がいつまでも家の中にいると、婚期が遅れるなどの不幸に見舞われるという。厄を流していない、という解釈になるのだろう。

江戸時代初期には形代の名残を残す立った形の「立雛」や、座った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。しかし、飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財の一つに数えられるようにもなった。そのため、自然と華美で贅沢なものになっていった。時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。享保年間からは、江戸幕府が倹約政策のとり、大型の雛人形が一時禁止された。『御触書宝暦集成』十五では、「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」という制限が見られる。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行した。

江戸時代後期には京で「有職雛」とよばれる宮中の雅びな平安装束を正確に再現したものが現れた。さらに江戸では新たに独自の内裏雛として今日の雛人形につながる「古今雛」が現れ、京に伝えられた。江戸で製作された古今雛には、原舟月などの作家ものがあり、ガラス製の玉眼も比較的早く用いられた。幕末には江戸の名職人であった渡辺玉翁が京で修行し玉眼を伝えた。

また幕末までには官女・随身・仕丁などの内裏人形につき従う従者人形が考案されたほか、特に江戸では18世紀の終わり頃から五人囃子人形が現れて人気を集めた。

さらに大道具や小道具も増え、京では京都御所の紫宸殿を模した雛御殿や台所用具が作られて御殿飾りとして発展した。いっぽう江戸では御殿飾りは広まらず、代わりに雛壇と嫁入り道具を用いた大規模な段飾りが発展した。戦後になると西日本の御殿飾りは大きさと複雑さにより組立と収納が大変であったことにくわえ、百貨店等の流通業者により取扱商品の全国的統一化が進んだことなどにより昭和30年代に急速に廃れ、壇飾りに押されて姿を消した。

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