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2020年4月17日

11778:夢の広場と河童池そして緑の時間:源池小学校の想い出

松本市の源池小学校に夢の広場が完成したのは昭和36年だったという。わたくしの古いブログ( https://www.kiyosawa.or.jp/uncategorized/36578.html/ )を見て松本市の新聞にコラムを書いている方が質問の電話をくださった。思えば今から60年も前のことである。

この夢の広場の建設は小学2年生か?私らのクラスは土木工事ではまだ余りお役には立てなかったことだろう。池が完成した後にクラスが皆で濁った水の中で水浴びをした覚えがある。元気な男の子は裸で水に入ったが、わたくしはひざ下まで入っただけで立って眺めていたのではなかったか?笹村草家人( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E6%9D%91%E8%8D%89%E5%AE%B6%E4%BA%BA )という有名な彫塑作家が、自分の息子をモデルに作ったブロンズの河童像が池の奥の岩の上で我々を見守っていた。学校の先生が作家を訪ねてほぼ無料で作っていただいた筈だ。

「緑の時間だ僕らの時間だ、さあさみんなで草木が茂る庭を造ろう、心合わせて頑張ろうよ。」という「緑の時間の歌」というものがあり、時に応じて歌っていたものである。

当時の先生方は、わたくしの両親とも同世代で、敗戦の悲哀を諸にかぶった世代に属する方々であった。4年の担任は女性の柴野みゆき先生。先生が嫁に行かれて、臨時教員で赴任されたのが浜宏作先生。この先生は大陸の戦場で都市を取り囲む城壁の脇で敵に囲まれ、銃撃を受けた時の銃創を後頭部の皮膚に持っておられた。正義感が強く、曲がったことは大嫌い。生徒が何か人を助けたりする様な行為をすると、ポケットマネーで買い貯めてあったノートに賞のゴム版を押して渡してくださった。その次の佐藤義富先生は戦争中には大学の夜間部で教員資格を取った苦労人の先生で、この先生も正義感が強い方だった。学徒動員で5NT(五色熱戦探知機)というレーダーのような機械を作っていた工場に動員されたと聞いた。ごまかしを生徒がすることが大嫌いで、何かで叱られることがあると、叩かれはしなかったが、椅子を持って廊下に立たされたりもした。今でいえば体罰に入るかもしれない。

学校には昼休みの直後に第一緑の時間と第二緑の時間というのがあった。第一緑の時間には校舎内の清掃をする。悪童は楽しく話をしすぎるから、その内に一切無言で掃除をするという無茶苦茶なルールが出来たりもした。濡れ雑巾で廊下や教室の床をふくだけでなく、親に米糠の入った袋を作ってもらいそれで廊下を空拭きして廊下の光り具合を隣のクラスと競ったものである。

第二緑の時間、これがまたとても特徴的なものであった。校庭の枯葉を掃く、花壇に種を撒き花を育てることから始まって、動物の世話をするというのもあった。多くは土木工事であり、スコップと箕(み)で土を運び、ふるいに掛けたものだ。土木工事をする人を蔑んだりするなという教育方針だったのだろう。しかし、その作業で汗を流した後の午後の授業、特に国語の授業などは、机でうとうとを通り越して爆睡していたものだ。

わたくしの4年生の時に、クラスはアヒルを飼った。生まれたばかりのアヒルのヒヨコが5ほど、どこからか買って来られてクラスでその世話をすることになった。豊登とかカルホーンとかプロレス選手の名前が付けられていた。どこで見分けられたのか今からは不思議に思うが、どのアヒルなのかの区別が生徒の誰にでもついていた。防火用水の池の脇にアヒル小屋が作られていた。40センチ角で深さが20センチの餌箱を作って小学校に持って行ったのも覚えている。隣にはニホンザルを飼っていたクラスもあり、なんと本物の豚を飼っているクラスもあった。ある時、大きくなった豚が柵から逃げ出して、学校の廊下を走り抜けた様は圧巻であった。

5年生になると私らのクラスの担当は昇降口に置かれた熱帯魚の世話係になった。グッピーに始まりネオンテトラ、レッドソードテール、エンゼルフィッシュなどに魚種は増えていった。最初のグッピーは浅間温泉の温水が流れる小川にそれを捉えに行ったものだ。餌は 班ごとに 糸ミミズを近隣のどぶ川で採って行った。魚が病気の時だけビタシュリンプというエビの粉から作られた餌を与えていた覚えがある。サーモスタットで温度調節をし、電熱が水槽の底に沈められている。エアポンプで空気を水槽に送る。ひれに白いカビのようなものが付くのが白点病で、それが付くとキニーネだったかの薬剤を水に加えて専門家に倣いながら先生が治療していた。

最終学年では、造園部と言って温室の担当になった。プリムラ、ベコニア、トラディスカンティア、そしてゼラニウムなどが3寸、4寸、5寸の鉢に栽培されていた。トラディスカンティアやゼラニウムなどは挿し木で簡単に増やせるものである。最大のイベントはガラスのフレーム(温室)を建設したことであった。最終的には担任の佐藤先生の設計になったのだが、各自が大きな一ミリ方眼紙に設計図を書いて持ち寄った。建築設計はメートルでなく、尺単位で行われる。土台には腐りにくくて安い栗の木を使うなどと聞いた気がする。セメント(1;3;6)とモルタル(1:1:0)におけるセメント、砂、砂利の混合比率を習い、鉄板の上でそれに水を加えながら小さなスコップでかき混ぜる。それを型板で囲われた間に流し込んで温室の土台を作るのだ。セメントには最後にアンカーボルトを立てて、その上にのせる土台の木材を父兄ボランティアの大工さんがナットで止めるのである。思えば相当に本格的な土木工事をしていた訳だ。完成した時には温室の土の中にタイムカプセルを埋めた。その後、校舎全体が建て替えられたので、あのタイムカプセルも失われたことだろう。

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