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2020年3月9日

11591:東京大空襲は1945年3月10日でした

清澤のコメント:1944年11月から、終戦間際にかけて100回以上にわたって執拗に繰り返された「東京大空襲」。最大の被害をもたらした3月10日には、1日で10万人が命を奪われた。その命日は明日です。当医院の近所には東京大空襲・戦災資料センターがあります。一度お訪ねいただきたい場所です。

そして3月11日は東日本大震災のあった日です。

ーーウィキペディアの東京大空襲の記載から抜粋ですーーー

「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー准将を代わりに出撃させることとした。

出撃したトーマス・パワー准将(右)から「ミーティングハウス2号作戦」の報告を受ける第20空軍参謀長ローリス・ノースタッド准将(左)とカーチス・ルメイ少将(中央)

本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー超短波警戒機乙は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が勝浦市南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が房総半島沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の洲崎対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた第12方面軍 (日本軍)が情報を検討中の、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に

  • 第一目標 – 深川区(現在の江東区)
  • 第二目標 – 本所区(現在の墨田区)
  • 第三目標 – 浅草区(現在の台東区)
  • 第四目標 – 日本橋区(現在の中央区)

へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の海野十三は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという。

出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった。

0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。この他、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦が防空壕で誕生した日でもあった。

一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった。

誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った。

被害規模

警防団と思われる焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人、民間の調査では10万人以上といわれている。(石川光陽撮影)

母子と思われる2つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない。(石川光陽撮影)

火葬が間に合わないので仮埋葬するため上野公園の両大師脇に下谷・浅草から運ばれた遺体

当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

  • 死亡:83,793人
  • 負傷者:40,918人
  • 被災者:1,008,005人
  • 被災家屋:268,358戸

人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。

また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した。

当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた。ラジオ東京は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている。

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