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2020年3月8日

11589:ゲルニカ物語、ピカソと現代史:荒井信二著紹介

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年に一度くらいご夫婦で遊びに来てくださる友人のご主人は医学ライターです。彼がライターになろうと思うきっかけになったという本をしばらく前に教えてくれました。表紙が茶色に焼けた古い新書版の本を早速購入したのですが、なかなか読み切れないで時を過ごしてしまいました。

ゲルニカという大きな絵画はマドリッドのプラド美術館で見ることができます。馬がいたり、牛がいたり、上には電灯が光っていて、死んだ人が横たわっていたりと、ピカソらしいといえばピカソらしいのですがわけのわからない絵です。

第1章:パリ万国博覧会・1937年 ファシズムと人民戦線

1937年に政府に反乱を起こしたフランコを助けて、ナチスドイツの爆撃機がスペインのゲルニカという街を爆撃しました。これは、のちに日本の街を焼き尽くすことになる戦略爆撃の先駆けであるとされています。これは総力戦を支える戦時経済や、国民の戦意に打撃を与えるため、工場など生産の拠点や民衆の居住する市街地に対して行われる爆撃です。

フランスのパリでは万国博覧会が開かれており、主会場はトロカデロ(シャイヨー宮)でしたスペイン館の入り口ホールに反フランコの意味で作成を依頼されたのがピカソのゲルニカでした。当時、深刻な不況が世を覆っていました。1936年2月左派の人民戦線派が人民政府を作りましたが、7月にはモロッコで軍部の反乱がおき、スペイン全土で内戦にと発展しました。これに対して、ナチスドイツはフランコ反乱軍を積極的に応援しましたが、フランスとイギリスは人民政府を擁護せず、ソ連のみが政府を援助しました。

第2章 ゲルニカの爆撃。

フランコの援助要請に対して、イタリアとドイツはフランコ軍への支持を明確にし、内戦の中心であった北部バスク地方が攻撃の対象になります。ドイツとイタリア空軍によりコンドル軍団が 編成され、ゲルニカが爆撃の対象になりました。(北海岸のバスク地方で図の赤色、ビルバオ近く)1937年4月26日の爆撃で町は70%が焼失。死者は人口5000人に対し1654名ともいいますが、詳細は不明な点が多いそうです。それはテロ爆撃でした。

第3章 「ゲルニカ」誕生。 ピカソの苦悩、作品の解釈

当時ピカソは結婚生活の破綻とスペインがカソリック国であるゆえに離婚が阻まれていてそれに苦しんでいました。絵画のゲルニカには牡牛と馬が出ているのですが、その構成は作品が構想されるうちに相当変化していますし、牡牛と馬が母国スペインと傷ついた人々を表すのかどうかという表象性にも議論があります。右には情景を眺める女が、そして上には目の形をした光源(電球)が描かれています。本書ではこの部分の記載が多いのですが、これ以上の評論は省略します。

第4章 漂泊と復活 ニューヨークから祖国へ

万博で大衆は「ゲルニカ」から何かを感じ取ったがそれが何か(理不尽に仕掛けられた戦争への抗議か?)は必ずしも理解しなかったらしい。万博終了後この絵は、スペイン共和国に寄付され、イギリスでの巡回展の後、米国ニューヨークに「亡命」することとなります。結果的にはスペインがフランコ独裁の下に置かれたため、絵は42年間米国にとどまることになります。絵はベトナム戦争でも反戦のシンボルを務めました。これにも関連してソンミ村虐殺事件の後にはゲルニカの撤去運動が1970年に起きました。絵はやがてスペインに帰還することになります。1973年ピカソが、そしてその2年後フランコも死去しました。1977年スペインと米国の国会がゲルニカの返還を決議して、絵はスペインへと戻されました。

終章:プラド美術館で

プラド美術館に絵画ゲルニカは終の棲家を得ました。バルセロナにもピカソ美術館があるそうです、訪ねたいものです。下のカタロニア讃歌はスペインの内戦に義勇兵として参戦した著者が書いた記録です。舞台として地図の右側にあるバルセロナ付近が出てきます。

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