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2019年4月24日

10666:水の都 東京の歴史散歩 中江克己 を読みました。

清澤のコメント:正月以来江戸の水道の話に惹かれて水の都江戸のことを記載した本を種々読んでいます。江戸は海沿いの低湿地でしたので、井戸を掘っても塩を含んだ水が出てしまい、飲料水としての上水を必要としていました。江戸時代初期ごろに、神田上水、玉川上水など江戸に水を引く工事が短期間でなされました。現在では、利根川や荒川水系にまで東京の上水は求められているようです。さて、東京都水道局のページには江戸時代の江戸を支えた玉川上水の適切な解説が載っていました。これを引用してみましょう。この本ではこの話題は第1章と第6章に相当します。(https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html

玉川上水の歴史

1 玉川上水開削以前の江戸の水事情

 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げられたと伝えられています。

 江戸の発展に応じて、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が完成したのは寛永6(1629)年頃とされています。一方、江戸の南西部は赤坂溜池を水源として利用していました。

 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人でしたが、3代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。もはや既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られるようになったのです。

2 玉川上水の開削

 承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。

 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。

 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。

 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

 (以上はほぼ「上水記*」の記述による)

tama01_map  地図 江戸市中の主要樋筋(1680年代)

3 玉川上水の分水

 玉川上水は武蔵野台地の尾根を流しているので分水が可能でした。

 最初に分水されたのは野火止用水で川越城主松平信綱が玉川上水開削の功により許可されたものです。(明暦元(1655)年)

 青山、三田、千川の3上水も明暦の大火後拡張した江戸の水需要を支えるため分水されましたが、享保7(1722)年に突然廃止されてしまいました。その理由は、室鳩巣の献言や財政難で水道の維持が困難になったため、あるいは堀井戸の普及によるものとも言われています。廃止された三田上水、千川上水も農民の強い要請で用水として復活し、寛文7(1667)年、水量の少ない神田上水にも助水されています。

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