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2017年5月4日

8816: 松本市近郊にあった城址の特集;記事紹介

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松本市近郊にあった城址の特集が「広報まつもと」という市の広報誌に出ていました。

松本市には有名な国宝松本城のほかにも東城山(林城)とか出川城とか古城の跡があちこちに静かに残っています。平成29年2月9日付けで小笠原氏居城跡(出川城・林城のうち大城)が国史跡に指定されたのだそうです。大慶至極。そこで、それ関係の記載をたどってみました。

◎信濃国守護小笠原氏の権力を誇る山城群(http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/prefecture/060.html)である小笠原氏城跡は5つの山城で構成されています。
※林大城と林小城を合わせて林城(はやしじょう)ともいいます。

★林大城(はやしおおじょう) ★林小城(はやしこじょう)他の3城は略します。

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◎林城
林城は里山辺地区林集落の東、大嵩崎(おおつき)集落をはさんで、南北に林大城と林小城が相対した信濃国守護小笠原氏の本城です。
林城の築城年代については、小笠原長朝が嘉吉3年(1443)に林城で生まれていることが「小笠原系図」に書かれており、長朝の父である小笠原清宗の時代に築城され、井川館から移ったものと考えられます。明応元年(1492)に林城で生まれた小笠原長棟(長朝の孫)は、菩提寺である廣澤寺(こうたくじ)の中興開基になっており、この時代に林城は小笠原氏の本城として、信濃国守護にふさわしい風格を備えた山城となったのです。

しかし天文19年(1550)7月15日、城主小笠原長時(長棟の子)は甲斐の武田晴信(信玄)に攻められて自落(戦わずして降参)し、山城や館は破壊されました。

大城の遺構は、金華橋のたもとから登ると、両側に階段状の小さな三日月郭(くるわ)が無数に現われ、尾根は大きな空堀(からぼり)で断ち割られ道を遮断しています。主郭は標高846mの山頂にあり、規模は大きく、さすが守護の本城であるとうなずけます。主郭の周囲には北から東にかけて土塁がめぐり、特に東側中央には野面積(のづらづみ)の石積が残っています。

小城は古城とも書くので、大城より築城は古いと考えられていましたが、最近の縄張の研究などから、大城より新しい時代に造られたと考えられるようになりました。主郭をとりまく石垣や縄張などは、山家城や桐原城と共通性が高いものです。

清澤のコメント:私の通った源池小学校から薄川に沿って東に上ってゆくと金華橋という橋があって、その袂から山に入ってゆく山道がありました。頂上にはやや広い場所もあって、小学生までには毎年ワラビ採りやキノコ採りにこの山に連れて行ってもらったものです。ある日アケビの弦に紫色のアケビの実が何個も付いているのを見つけて、うれしかったことを思い出します。

 山頂には打ち捨てられた瓦が落ちていましたが、現代の瓦かと思って父に訊いたら、こんな山の上まで古瓦を捨てに行く人がいるはずがないから、小笠原の城の瓦だろうといわれたことを覚えています。桔梗が原の戦で負け、その後たった2日で本城も落ちたと聞き子供心にもがっかりし、武田家を嫌い、上杉謙信を慕ったものです。

 山の北側には戦争中に掘られた軍需工場用の横穴トンネルがいくつも開いていて、当時は危険だから決して入ってはいけないと戒められていました。私の父はこのトンネル堀の工事に大学の工学部土木科の学生として技師待遇で参加していたそうです。
 

◎出川城(いでがわじょう)
 室町時代の信濃守護小笠原氏の居館跡。これまでの発掘から、周囲を堀で囲んだ南北100メートル・東西70メートルに及ぶ巨大な長方形の館があったことが明らかとなり、内部から建物跡とともに高級な陶磁器など武家の豊かな暮らしを伝える建物が出土している。

清澤のコメント:印象としては松本駅より南に2キロ程度で鎌田小学校や鎌田中学のあるあたり。この辺には大きなお宮もあったけれど、それは川にもう少し近いところ。地名は出川とも出川城とも呼んでいたから古い城跡ではあったのだろうけれど、山もないので市民には城跡という印象はない。天井川になっている扇状地の田川がいつも洪水を起こしていただろうと思うようなな地形。戦国時代になって上記の山城である林城に移ったらしい。

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◎平瀬城
平瀬城跡 ひらせじょうあと

指定等区分:市特別史跡
指定年月日:平成26年3月5日
所在地 島内9627イ号ほか
時代区分 戦国時代
地域:松本西部

安曇野を望む山城の跡

平瀬城跡は、奈良井川と梓川とが合流する付近の、安曇野に面する尾根上に造られた山城の跡です。
島内下田地区の犀乗沢をはさんで、北側の尾根に本城、南側の尾根に南城が築かれ、これら一体で平瀬城とされています。松本地域の他の山城と比較すると、本城の主郭部分がずば抜けて広いこと、また、尾根続きに築かれている連続竪堀が大規模かつ複雑であることが特徴として挙げられます。

平瀬城は多くの文献史料に名を残しているため、研究者の間で著名であり、他の山城に比べて広く研究されてきた経過があります。江戸時代に松本藩主水野氏が編纂した『信府統記』には、犬甘(いぬかい、犬養・犬飼とも書く)氏の一族である平瀬氏の居城であろうと書かれています。また、武田氏の史料である『高白斎記』には、天文20年(1551)10月に、武田氏が平瀬城を攻め、204人を討ち取り平瀬氏が滅亡したという記載があります。ただし、平瀬氏滅亡の場所は、平瀬氏の居館である川合鶴宮八幡神社地とする説もあります。

清澤のコメント:先日訪ねた一千舎展望台のもう少し北。松本市の城山公園、アルプス公園、そして一千舎展望台と続く巨大な断層により形成された連続する崖の上です。その下には犀川と奈良井川の合流点があり、常念岳が正面に見える場所です。この辺りには確かに犬飼君という旧家の同級生の家がありました。武田信玄の信濃侵攻の前に小笠原家が無力にも追い出されるわけですが、ここで200人もの武者が打ち取られた戦があったとは初めて聞きました。この後、歴史は甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信と間で戦われた川中島の合戦へとつながってゆきます。

Categorised in: ご近所の話題